第29話 新たな体験と出会い



 アメリカに行ってきてから、3年生から4年生にかけていろいろな経験をすることができました。今回はそれらのことについて書くことにします。
1 インターナショナルスクール訪問
 横浜市石川町には「インターナショナル・スクール」がありました。私はペイトンさんの推薦をいただいて、3年生と4年生の時に招かれて、訪問するチャンスが与えられました。これは、Awareness Day(啓発の日)といいまして、いろいろな社会で頑張っている人たちから話を聞こうという学校のプログラムで、視覚障害者の体験を知ろうという企画でした。私は一人で京浜東北線に乗り換えて桜木町に行ったと思います。そこから石川町駅に出ました。イギリス人の先生が迎えに来てくださいました。その辺の地理はよく分かりませんが元町、港の見える丘公園とか聞いたような気がします。さて、そのインターナショナル・スクールですが、生徒は小学生から高校生まで300人程度いました。現在は750人いるそうです。そこは日本でないような気がしました。もちろん言葉は全て英語です。帰国子女、両親が外国の人たちの子供たちです。中には有名人の子どもたちも沢山いるようでした。私は、第1回目の時に、5年生、6年生のクラスに出席して、視覚障害者のこと、自分の大学などの経験について30分程話をしました。残りの時間は、生徒との質疑応答の時間です。彼らの英語のスピードは、実に速く、私にも分からない表現がありました。その時は、担当の先生が助け舟をだしてくださいました。ここでひとつ楽しい話がありました。私は盲人用時計、指で文字盤を見て時間を知る時計ですが、それについて、「これは視覚障害者が指で時間を知ることができるとても便利なものです。映画俳優の勝新太郎さんが、アメリカに行って珍しい時計を見つけて来たんだ、と言って周りの人たちに自慢をしたそうです。実はその時計がこれだったのです」と私が話しますと、クラス内から爆笑が起こりました。私の話が受けたのかなと思い、私も楽しい気持ちになりました。授業が終わりましたら、担当の先生のひと言、「ミスター阿久津、あのクラスには、勝新太郎さんの息子さんがいたのですよ」との落ちがつきました。私は勝さんの批判などしなくてよかったと冷や汗をかいたものです。学校の中は実に自由でした。自動販売機が沢山あり、生徒たちは、自由に休み時間に自動販売機の周りでおしゃべりをしていました。お昼の時間はカフェテリアといっていましたが、いわゆる給食の食堂ですが、トレイを持って、各自好きな物をとって食べるという選択方式です。日本では出されたものを全部食べなさいですが、ここがインターナショナルだと思いました。私は、月謝をききましたら、当時で年間3百万円と聞いてビックリでした。翌年にもう一度声がかかりましたので、その時はビデオの「May I help you?」 という平山さんがアメリカから持ち帰った、16ミリ映画を上映しました。そして、日本のマッサージや鍼の効果について中学生のクラスで話をしました。生徒たちが、私の英語の先生のような気がして緊張をしましたが、よい勉強になりました。間違った英語表現を言うと、生徒たちは直ちにチェックしてくれました。記憶にあるのは「一生懸命に」を、思わずhardlyと言ってしまいました。「それはほとんど…で無い」というのが正しい意味なので、一生懸命とは逆の意味になってしまいます。今でも覚えていますから、間違いは勉強になります。
2 成城大学の英文科に行ったこと   これもペイトンさんからの紹介で、小田急線成城学園前から近くの成城大学へ行くチャンスが与えられました。しかも英文科のオーラルの時間でした。担当の先生はアメリカ人でした。視覚障害者が英語の勉強をしていること、そして視覚障害者の体験談を学生たちに聞かせたいと思ったのだと思います。その日、私は38度の熱を出していましたが2度と無いチャンスなので張り切って行きました。
 ひとクラス50人程度なので、桜美林とはそう変わりませんでしたが、彼らの英語はとてもすばらしく熱心でした。一人ひとりの英語を聞くことはできませんでしたが、やはり平均してレベルが高いことを教えられました。まだまだ勉強をしなければとのよい刺激になりました。担当の先生は、「あなたがそれだけ英語の勉強、コミュニケーションに力を入れていることは、この大学生たちにもよい刺激になりましたよ」と、励ましていただきました。
3 日本聾話学校での体験
 これも大学3年生の時と思いますが、人を介して、町田市にある日本聾話学校に招待をしていただきました。私が視覚障害、生徒たちは聴覚障害、大丈夫かと心配しながらの訪問でした。それは、日本の一般的な聾学校のイメージがあったからです。聾学校の生徒とは小学生時代から、学園生活で寝起きを共にしていました。日本聾話学校は、キリスト教を土台とした私立の学校でした。私が参加したクラスは中学2年生のクラスでした。彼らにとって英語は極めて難しいのではないかと思っていました。全盲の人にとっての美術に匹敵すると思ったからです。ところが、彼らは英語のテキストを使って、かなり正確な発音で読み、自己紹介をしていました。本当に聴覚障害なのかなと、私は思いました。授業の後、担当の先生に質問をしました。すると、残存の聴力を生かす方針で聴覚指導を重んじて、あらゆる機会を活用して、分からない時は、相手の口の動きをよく観察することが、教育のポイントです、とおっしゃいました。また、日本語よりも英語の方が口のあけかたがハッキリしています。f,v,th等、口の筋肉の動きは日本語よりも遥かに大きいのです。手話法よりも、できるだけ言葉の獲得を多くすることが必要です、とおっしゃっていました。栃木県の聾学校では同時法と言って口話法(口の動きから読み取ること)と、手話法を使っていたと聞いています。現在はどのような指導法になっているかはわかりませんが、日本聾話学校の指導は画期的だと感じました。実はそれから10年後、同学校で教師をしていた方が、私が行っている四条町教会に来られました。何と不思議なことかと思わずにはいられません。
4 横浜ライオンズクラブでの話
 4年生になって間もなくのことです。横浜市中区に住んでいる叔母のパートナーが、横浜の長者町で設備関係の会社を経営しており、ライオンズクラブに入っていました。私の幼い頃から知っている、義理の叔父で、私をかわいがってくれ、時には激励をしてくれました。この叔父が、私がアメリカに行ってきたと知って、「啓司、ライオンズクラブで話をしないか」との声をかけてくれました。私は喜んで出かけて行き、視覚障害者についての理解を深めるための話、アメリカに行っての経験を話しました。さらに、叔父の強い勧めによって、私がアコーデオンを1曲弾きました。そこにいたライオンズクラブの皆様は視覚障害者に会うのは初めてとのこと、アコーデオンを弾くなんて思ってもいませんでしたので、これが一番の驚きのようでした。叔父は、満足そうに「啓司は目が見えないけど一生懸命に生きています。義理の甥ですが、私は誇りに思っているのです」とまで言ってくれました。こういう言葉は、親からも聞いたことはありませんでした。その後、叔父と叔母の二人に横浜の本格的鮨屋に連れて行ってもらい、生まれて初めてカウンターで握り寿司をご馳走になりました。あのお寿司の美味しかったことは忘れられません。もう二度と経験できないでしょう。叔父は16年前に、66歳の年で、心筋梗塞で突然亡くなりました。経済不況のために、重なるストレスが原因と思われます。
5 農村伝道神学校での話
 私の住んでいる町田市には、農村伝道神学校がありました。そこで「ひとつの会」で共に活動をしていた菊地礼子さんから声がかかり、牧師になるために勉強している神学生のために体験談を話して欲しいとの依頼を受けました。菊池さんもその神学校の卒業生です。依頼を受けると基本的には断らない私のことなので、喜んでうかがいました。神学生は30人程度だったかと思いますが、そこで勉強をして、将来は農村地帯でキリスト教の伝道に励む皆様です。聖書の話は、学生さんたちの方が専門です。私は視覚障害者のとりわけ私がどのようにしてクリスチャンになったか、恩師・鈴木彪平先生との出会い、そして大学時代の様々な苦労と喜び、アメリカでの経験を話しました。それがきっかけで、農村伝道神学校には2〜3度遊びに行き、夕食をご馳走になってきました。
6 大学生のための点訳について
 市民会の方に、沖縄キリスト教短大の英文科に一人の女性が入学しましたが、点訳のことで困っています、との話がありました。3年生の後半から4年生にかけて時間のゆとりの取れるようになった私でしたので、市民会の会員、高松さんとチームを組んで、土曜日の午後から夜にかけて、その短大生のために、英語の教科書の点訳にかかりました。ある時は、東京信濃町キリスト教会の一室を借りて点訳をしました。また、間に合わない時は、ご家庭の協力をいただいて、東京国分寺市にある、高松さんのお宅で宿泊しながらの点訳をしました。ご両親も理解をしてくださり、協力をしてくださいました。高松さんのお母様は、実は、幼い頃、アメリカで育ったとのことで、その後、私のために英語の本を朗読していただきました。本当にありがたいことでした。人は誰かのために何かをしようとした時に、新たな出会いがあり、道が開かれることをこれらのことをとおして痛感いたしました。
★メモ★
 1973年11月から75年にかけて、第1次オイルショックがおきました。これは、イスラエルとアラブ諸国が緊迫化し、加えてドルの自由変動相場制が導入された原因によりました。その結果、トイレットペーパー・粉石鹸の買占めに人々は走り、スーパーからそれらが全く消えてしまいました。食べ物もアッという間に30パーセントは値上げされてしまいました。パン、ラーメン等の値上げで、生活が苦しくなりました。物価が高騰した反面、経済が持ち直してから、給料も値上げされるようになりました。先輩の教師から聞きましたが、75年のボーナスはこれまでにない程の値上がりだったといいます。人事院勧告により、今までの教員の給料が安すぎたので、教員を確保するための法律もできたと聞いております。時代は繰り返し、10年前からは給料は元の道へと下がり始めて止まるところを知りません。



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