第30話 大学最終年の思い出



 1975年(昭和50年)、私は大学4年生になりました。この年の私の目標は3つありました。教育実習、教員採用試験、卒業論文を英語で書くことでした。そのために、私は4年生では10単位を取れば卒業できるように、3年生までにほとんどの単位を修得しておりました。この10単位のうち4単位は「教育指導法」で、教育実習の基礎となる指導法を教えていただく授業で、あとの6単位は卒論を書けば取れるというものでした。その教育指導法の中では、具体的な指導の実践例が沢山教えられましたが、今でも心に残っている、先生からの一つのアドバイスがあります。それは、教師は生徒たちに「分かりますか?」と言わないように気をつけてください、という教えでした。教師が「分かりますか?」ときけば、生徒の大多数が「はい」と答えます。分かってなくても「はい」と答えるのです。それは、自分だけが「分からない」とは答えたくないからです。教師の仕事は、授業をしながら生徒たちが理解しているかどうかを把握することなのです。ですから、口癖で「分かりますか?」という教師が多いように感じますが、これは意味のないことなのです。このようなアドバイスでした。まったくその通りだと思いました。
 さて、6月の2週と3週にかけて、私は母校である、栃木県立盲学校で教育実習をさせていただきました。私の指導の担当者は言うまでもなく、鈴木彪平先生でした。私は高等部の授業をさせていただくわけですが、最初の1週間は鈴木先生の授業を見せていただき、2週目に私が授業をさせていただきました。私にはクラス担当が与えられ、高等部普通科1年生で、担任が小嶋千舟先生でした。その2週間ですが、授業の指導のことばかりが絶えず頭を占めており、あまり記憶に残っていません。高校1年生は男女2名ずつで、そのうち3人は私が盲学校にいた時には小学生でしたので、彼らの成長ぶりに大変驚きました。鈴木先生の授業は、私が生徒の時と同じように、大変充実しており、生徒の心をとらえ、さらにアメリカでの先生の体験を具体的に交えての授業でした。私の番になった1週間ですが、15時間の授業をしました。リーディング、英文法、英作文の三つに分かれての授業でした。私が生徒の時は理療科高等部でしたが、1971年に制度の変更で普通科高等部になり、授業単位数と内容が大幅に変わっており、家に帰って準備に時間を沢山かけました。帰宅すると緊張したせいもあって、夕ご飯を食べてから1時間ほど、ひと休みしてから準備に取りかかりました。とにかく、学校自体が私のいた駒生町の盲学校から建物が移動されていたので、学校の中に慣れるのがひと苦労でした。そのことも緊張した原因の一つだったと思います。授業については、事前に鈴木先生に打ち合わせをしていただき、指導の手順、指導のポイント、確認事項を毎回チェックしていただきましたので、二日目からはとても楽しい授業となり、1年生から3年生までの生徒たちは真面目に取り組んでくれました。最後の日には小嶋先生が、私のために高校1年生と一緒にコーヒーとケーキで「お疲れ様」の時間をとってくださいました。小嶋先生とは、私が専攻科の時から親しくさせていただきましたが、このようにとても思いやりのある先生の心に触れることができて感謝の教育実習でした。2週間を終えての帰宅途中、私の心は寂しさで一杯になりました。そして、「盲学校の教師はいいなあ、どうしてもなりたいなあ」との気持ちが強くなりました。
 さて、次は7月に実施される教員採用試験です。このことについては、栃木県では点字で受験が認められていると以前聞きましたが、念のために前年教育委員会に手紙を出したところ、点字で受けられますとの返事が来ていました。当時は、教員採用試験を点字で受験できる県は少数でした。現在はほぼ全県で実施されていると思います。早速、教員試験問題集を本屋から買って来ました。分厚い本でしたが、過去の問題が全部載っている訳ではありませんでした。教育関係の問題集がほとんどで、専門科目は公表されていなかったように記憶しております。私は、当時高等学校の教師をしておられた、新井秀先生(鈴木先生のご長女多恵さんのパートナー)にお願いをして、栃木県関係、その他何県かの問題集を録音していただいて、卒論と平行して勉強に取りかかりました。日本国憲法は日本点字図書館から購入することができましたが、その他は点訳がされていないので、教育基本法、学校教育施行令等は録音をしていただき点訳をしました。
 さて、試験の当日、7月の第1日曜日だったかと思いますが、受験校に向かいました私は一人別室で受験をしました。受験時間は、当時点字受験者には1.5倍の時間が与えられていました。まずは一般教養の試験です。点字で30ページを45分でやらなければなりません。これは大変なことです。考える猶予などほとんどありませんでした。中学生程度の5科目ですが、私は英語・国語・社会は何とか分かりましたが、理科と数学は、どこかで読んだ記憶はあっても、全く自信がありませんでした。教育専門は、前もって勉強をしていたので、こちらは解答することができました。専門の英語ですが、思わぬ話題に遭遇してしまいました。確かギリシャ神話についての長文読解で、基礎的知識があれば答えられると思いますが、私はあまり自信がありませんでした。9月になって、残念ながら採用試験は不合格ということになりました。受験した時から、多分だめだろうとは覚悟をしていましたが、いざ動かぬ事実を目の前にした私、しばらくは茫然自失でした。鈴木先生の期待に応えられないということで、反省仕切りでした。それからの就職活動です。いざとなれば、理療科の仕事があるだろうとは思いましたが、英語で身を立てたいという願いはそう簡単には消えません。ペイトンさんに相談をしましたところ、電話を使っての英語教室はどうか、とのアドバイスを受けて、ペイトンさんに案内していただいて、東京世田谷区のマンションで、電話を使って英語を教えているイギリス人の英語塾の様子を見せていただきました。30分単位でのレッスンと聞きました。東京だからこのような方法も可能なのかなとも思いましたが、いずれにしても、すばらしいアイディアだと感心しました。しかし、私もすぐにできるかどうかは自信がありませんでした。イギリス人の先生にはネイティブの強みがあると感じたからです。次に市民会の会員で、千葉県の市川市にある、京王文化センターで仕事をしていた高松和子さんの協力をいただいて、そこでの英語塾を見学させていただきました。中学生対象の授業でした。10人程度のクラスを、女性の先生がテキパキと黒板を使いながらの学習塾でした。いわゆる受験勉強でした。結局鈴木先生が親身になって考えてくださり、「僕も来年には、盲学校を退職するので、その後は英語塾を開くから、君も一緒にやると良いよ」と励ましてくださいました。私の心は、それを聞いて平安になりました。それにしても、ここまで考えてくださる鈴木先生の教え子へに対する愛の深さにただただ感謝の気持ちで一杯でした。
 さて、残されたのは卒業論文でした。私は、大学1年生のときに勉強をした、Erskin Calldwellというアメリカ南部の作家に興味をもつようになりました。その担当の先生も、アメリカのジョージア州に留学しており、黒人差別の問題等を、体験を通して話してくださいました。コールドウェルは、1903年から1987年の作家、アメリカジョージア州に生まれた人で、南部の黒人差別をリアリズムを通して、短編小説を中心に沢山書いた作家です。同世代の、ジョン・スタインベックのように、ノーベル文学賞を受けるまでにはいたりませんでしたが、テーマは、スタインベックと類似していました。スタインベックは、「怒りの葡萄」、「エデンの東」、「二十日鼠と人間」等、沢山の名作を書きました。コールドウェルは、代表作が「タバコ・ロード」で、その他に、「神の小さな土地」、「ジョージアボーイ」、「グレッタ」、自伝「経験と呼ぶことにした」等の本を書きました。私は、2年生になると、直ぐに卒論のための本を買い集めました。その本を、ある本は有料点訳にお願いし、ある本は聖心女子大の卒業生の人達が英語点訳グループを組織してサポートをしてくださる「御心会」にお願いしました。また、ペイトンさんに紹介をしていただいて、日本に在住のアメリカの女性に音訳をお願いしました。そのような方法で、コールドウェルの自伝を含めて10冊の本を、大学三年生の終わりまでにそろえることができました。
 いよいよ4年生になりました。私の大学での授業は1科目4単位で、後は下宿で、卒論を書き上げる作業です。現在のようにパソコンはありませんから、まず原稿を点字で書き、英文タイプライターで原稿をを書き始め、定期的に担当教授の所に持っていき、修正をしていただきます。その繰り返しをします。しかし、教授がチェックしたところを私は読むことができません。最終的には、音訳を協力してくださったアメリカ人の女性が、英文タイプで見事に完成してくださいました。全部で40ページの英文でしたが、とてもよい勉強になりました。
 さて、その私の論文は、「タバコ・ロードにみる、コールドウェルのヒューマニズム」でした。細かい内容はもう37年前のことでかなり忘れていますが、タバコ・ロードのあらすじを追いながら、他の作品、「神の小さな土地」、「グレッタ」、「ジョージアボーイ」、そして自伝ともいうべき「経験と呼ぶことにした」等の本を取り上げながら、作者のヒューマニズムを論述しました。「タバコ・ロード」は、1930年のアメリカ全土を襲った大恐慌の時に、アメリカ南部、ジョージア州を舞台にした小説です。果てしなく広がるタバコ農場、そこで働くのは、差別に苦しむ黒人だけではありませんでした。Poor Whitesと呼ばれる、小作人として大農場で働く貧困層の白人もいるのです。貧しさの中でも、明るく生きる白人、しかし貧しさからの悲劇も描かれています。タバコ・ロードを通して、また他の作品を通して、作者が訴えたかったことは何か、搾取や同じ人間としての差別・偏見、そして経済的格差に対して、コールドウェルは、ヒューマニズムの立場から、人間らしさの回復を訴えていると思います。その論文を書いている時に、コールドウェルのインタビューをラジオで聞くことができました。私は飛び上がるほど喜びました。そしてそのインタビューも、卒論の中におりこんで彼の生き方、人生観を書くことができました。その結果、卒論発表会の時には、代表者の一人として選ばれたことは、私にとりましては卒業への大きなプレゼントとなりました。私が選んだコールドウェルは、マイナーの作家であるが故に、自由に書くことができたと思っております。2年間で点訳書・音訳テープを準備して、1年間をかけて英語で論文を書くことができたことは、大変有意義でした。そのような経験は、その後一度もありませんでした。しかし、本の読み方、ツボどころを勉強することができました。
 大学時代での卒論の思い出と共に、今なお記憶に残るのは、アメリカのプリンティングハウスという、点字図書館から原書を買って読むことができたことです。高校生の時に読んだ、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ(Gone With The Wind)」と、エミール・ブロンテの「嵐が丘」(Wuthering Heights)を分からないところが沢山ありましたが、盲学校にいた時に図書館から借りて読んだので、とにもかくにも、原文で通読できたのは、大学に進学したからできたのだと思います。逆に、メルビルの Moby Dick は、難しくて買ったものの読みとおすことができませんでした。何冊か残念ながら廃棄せざるをえませんでした。
 卒論発表会を終えてホッとしていたある日、3月20日前後かと思いますが、自宅に教育委員会から電話があり、明日教育委員会に来るようにとの連絡を受けました。私は、もしかして、とのほのかな期待をもって帰宅して、翌日教育委員会に出向きました。そこで面接を受けて、私が盲学校で英語の教師を臨時講師として働く気持ちがあるかどうかときかれましたので、「是非お願いします!」と、ドキドキする心を必死に抑えて答えました。連絡は後日するから、とのお話をうかがって帰宅しました。鈴木先生に連絡をしましたところ、とにかくチャンスが与えられたのだから、しっかりと実力を付けるようにとの激励をいただきました。
 大学の卒業式の日にちをハッキリ覚えていないのですが、多分3月25日頃だったと思います。母が卒業式に来てくれました。母は、卒論担当の角田四郎先生から「阿久津君はよく頑張りましたよ」との言葉をかけられて、声を上げて泣きました。これまでの母の苦労を思うと、私も涙がこみ上げました。その夜は、横浜の叔母の家に一晩泊まり帰宅しました。
 3月の30日頃かと思いますが、盲学校の臨時講師をするようにとの連絡を受けて、我が家は喜びに満たされました。鈴木先生も、自分の教え子が後継者になることができたので喜んでくださいました。とにかく1年間の臨時採用となって、我が母校に4年ぶりに帰ることができたのは、鈴木先生の心からの支援と、当時校長先生をなさっていらっしゃった、吉江先生の深いご理解があったからと心底感謝しました。私の4年間の大学時代はこれで終わりますが、振り返りますと、本当に幸せな青春時代だったと思います。そして数知れぬ人たちに助けられ支えられたことを、今改めて思い返しております。
 神様が私を守り・導いてくださったのだと信じています。行き先の分からない私を、目には見えない神様がいつも一緒にいてくださったのです。
★メモ★
 卒業の後かと思いますが、社会福祉研究会では4年生の卒業を祝っての一泊旅行で、下田の方に楽しい旅行をしました。
 また、自分は理療科の実態をもっと知っておかないと、盲学校での教師となるには不適切と思い、1年後輩の、野口三之助君に頼んで、群馬県館林のサウナで働いていた野口君のところで1週間働かせてもらいました。伊香保温泉とはことなり、1箇所でマッサージの仕事をすることの安心・安全を体験しました。料金は、その時には60分で2千円となっていました。野口君は、それから14年後、彼が33歳の時に心筋梗塞のために一夜にして天国へと旅立ってしまいました。今でも夜、目が覚めると、彼のことを思い出します。江曽島学園で共に生活した友人の一人でした。
 我が親友、増田君も、私に付き合ってくれたのか、それともよきガールフレンドが見つかったからか、とにかく4年間鍼化学研究所で研修を続けて、一緒に卒業となり、彼は実家である日光市で開業の新たな道を歩み始めました。
 ベトナム戦争は1965年から1975年4月まで続き、米兵の死者は5万6千人に及ぶと言われています。この頃のヒット歌手は、キャンディーズ(1973年から1979年)が大ヒット、その後、ピンクレディーが追いかけるようにしてヒットしました。暗い世相に一筋の光明がさしたように感じました。
 次回からは、教員時代に入ります。



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