第31話 社会人としての第一歩
1976年の4月、私は1年間の臨時講師として、栃木県立盲学校に戻ってまいりました。その時は鈴木先生のご退職の時でしたので、私の心は大変複雑な心境でした。先生の後継者として仕事をするのは感謝なことですが、先生の27年間の盲学校での働きを思うと、責任の重さに押しつぶされそうでした。しかし、一人の人間として、私にできることを精一杯やらせていただこうと、気持ちを切り替えて勤めることにしました。
さて、私の教員生活は36年間ありました。第1期は高等部普通科での16年、第2期は中学部での8年間、そして第3期は高等部普通科に戻っての12年間ということになります。これを、10回程度にまとめて書きたいと思います。生徒の名前は、了解を得てない生徒のことはイニシャルで記載することにいたします。今回は、主に就職1年目の思い出を書きたいと思います。手元には日記も何もありませんので、相変わらずの「思い出さん、こんにちは」です。
4月8日、私たち新任の教師は、確か12人だったと思います。私は4年ぶりに盲学校のステージで一言新任の挨拶をいたしました。「4年ぶりに盲学校で仕事をさせていただけることを感謝します。精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」との本当に一言の挨拶でした。専攻科3年には高橋君がいました。彼にとって幸いなことは、私から授業を教わらなくてすんだということですね。この年、私は高等部普通科1年生の副担任となりました。江曽島学園時代に一緒にいた生徒もいれば、寄宿舎にいた生徒もいました。クラスは9人でしたが、その中の3人がその年に入学してきたのでフレッシュな感じがお互いにあったかと思います。高等部普通科は、その時が36年間で最も生徒数が多かったかと記憶しています。1年生9人、2年生5人、3年生9人の合計23人でした。高等部全体でも、その年は60人程度いたと思います。
まずは仕事上の苦労話を書きます。現在のようにパソコンもなければコピー機もありませんでした。教頭先生からは、「何か困ったことは、同僚の先生や理科の実習助手の先生にお願いするように」と言われましたが、先生方は皆忙しく、私の一つひとつの仕事の手伝いをお願いするわけにはいきません。例えば、弱視の生徒に渡すプリントの準備、試験問題の作成、採点等、気軽に頼めるものではありませんでした。ちなみに理療科の先生方には、理療科実習助手の先生が3人いらっしゃって、授業関係のことをお願いすることができました。この状況は今でも変わっていません。一般中学校や高校で働いている視覚障害者の教師には、アシスタントの教師が配当されるのでこの違いは大きいと思います。私は、鈴木先生にアドバイスをお願いしたところ、「それは家族の人に手伝ってもらうのが最も良いことです」と、言われました。鈴木先生の場合は、教員をなさっていた、たみ先生が全てアシスタントをご自宅でなさっていたことが分かりました。職場で手伝ってもらえる時はお願いするにしても、自分の授業関係は、家族に手伝ってもらうのが最良であることが分かりました。私の場合、4歳下の弟がとても協力的でしたので、結婚までの3年間、弟にほとんど助けてもらいました。試験問題の作成は、英文はタイプライターで書き、日本文は、ガリ版と言いますが、鉄筆で書いて、それを謄写版でローラーを使って何枚も印刷するという方法でした。これは戦前からの方法だと思います。試験の採点は、家に持ち帰って、弟に墨字を読んでもらって、弱視の生徒の採点を行いました。ノートのチェックも、同様に弟に読んでもらってチェックをしました。ノートの作成も英文はタイプライターでしたが、漢字仮名交じり文はガリ版刷りでした。最も困ったのが、毎日の出勤簿の整理でした。これは20年間程度続きましたが、毎日、「すみません、出勤簿の印を押してください」とは頼むことができないので、1年目からは担任の先生に印を預かっていただいて、その先生が出勤簿の整理をする時に一緒にお願いしました。出張や休暇の時には、前もって連絡しておくことが必須でした。
4月15日、初めての給料を事務室に行っていただきました。10年前頃までは、給料は現金支給で袋に入っていたのです。私は、事務室で給料をいただく時に手が震えました。確か8万9千円だったと思います。帰宅後、父親に感謝を込めて、給料袋を手渡しました。父は、何かお土産をいただくと同じように、仏壇の上におきました。それからは私がどうするかは自由にさせてもらっていました。我が家に食事代を少し入れて、5万円を定期預金にしました。残りを、様々な交際費や小遣いにしました。
さて、学校生活ですが、学校行事は基本的には、私が生徒の頃と変わってはいませんでした。普通科の英語の授業は本当に楽しかったです。生徒たちと年齢も7歳から8歳の違いですから兄弟の様な気持ちがありました。とはいえ、授業はしっかりやりましたが、時としては大学時代の思い出を話しました。この年に忘れられないことが二つあります。
一つは落語クラブでした。理療科でお世話になった渋谷先生が前年度担当なさっていたとのことでしたが、授業の一つにクラブ活動が認められており、落語クラブができていました。渋谷先生は、私が落語が好きなことをご存知で、「これからは若い人に頼むよ」と言われて、お引き受けしました。週1時間の落語クラブで、男子4人いました。それまでの1年間の活動内容を聞いてから、各自の持ちネタに磨きをかけて、秋には落語発表会をやろうということになりました。それからは、毎週、時には各自同じ部屋でしゃべくりました。また時には、お互いに発表して、相互に意見を交換しての練習風景でした。私も、一席やることになり、古典と新作を交えての落語をまとめあげました。生徒たちは本当に落語が好きで、とてもレベルの高い落語ができていました。10月の放課後、私達落語クラブは、放課後の50分なので、二日に分けて落語発表会をおこないました。演目は、「子褒め」、「時蕎麦」など、古典落語の有名なものでした。特にO君の「禁酒番屋」は絶品でした。ここで内容のあらましを紹介します。ある武家屋敷、酒の席での不祥事があって、藩主が禁酒令を出しました。酒好きの侍たちは、何とかして酒を飲みたいけれど、番屋を通り過ぎなければなりません。そこで酒屋が一計を案じ、カステラの箱に徳利を入れて、水カステラと言って番屋を通り過ぎようとしますが、見つかって番人に飲まれてしまいます。今度は油だとごまかそうとしますが、これも失敗して飲まれてしまいます。都合二升もただでのまれ、腹の虫が治まらないのが酒屋の亭主。そこで若い衆が、今度は小便だと言って持ち込み、仇討ちをすることになります。そうして小便を徳利に詰めて番屋に持って行き、これは「小便」だと言います。番屋はまたもや酒だろうと思って飲もうとして気がつき、怒ります。すると酒屋の若い衆は「ですから、初めに小便と申し上げました」、「うーん、この、正直者めが」で落ちです。私の落語は当時新作落語で人気のあった、三遊亭小圓遊さんの新作と古典の「たらちね」をミックスしての落語でした。二日間の発表会は盛会で小学生も来てくれて、40畳のあんま室はほぼ満員となりました。この落語クラブは、その1年で解散となりました。理由は、顧問がわるかったのか、カリキュラムが変わったのかは覚えていませんが、とても楽しかった思い出です。
もうひとつは、これも36年間で最初で最後の部活動でした。それは、私が生徒たちに提案して、英会話を立ち上げたことでした。最初は乗り気でなかった普通科の生徒でしたが、7人くらい部員が集まりました。週に1回か2回、英語のテキストを使っての勉強をしたり、ふとしたきっかけで親しくなった宇都宮中央女子高の英語の先生、山形先生とテープによるボイスレターの交換をしました。ハイライトは、夏休みに、栃木県身体障害者福祉会館(平山さんの就職した所)で、アメリカから日本に留学していた高校生に来てもらっての国際交流プログラムでした。福祉会館には、無料で10人程度泊まることができましたので、とても楽しいひと時となりました。私を助けてくださった上吉原先生も、一生懸命に食事のことなど助けてくださり、さらに先生が自宅から浴衣を持ってきてくださっての試着で、アメリカのゲストも大喜びでした。1泊の交流会後、私が高校1年生の時の担任だった蓼沼(たでぬま)先生のお宅でもホームステイをしてくださり、彼女は「本当に楽しかった」と言って、東京に帰りました。
さて、この年、私にはどうしてもやらなければならないことがありました。それは、教員採用試験に合格しなければならないということでした。私の苦手は数学でした。そこで四条町教会に来ていた、宇都宮大学の大学院生の佐治さんに家庭教師を3ヶ月お願いして、我が家で数学の基礎を教えていただきました。家では、できの悪い生徒だったかと思いますが、佐治先生からは、分かりやすく丁寧に教えていただきました。その甲斐もあって、その年の教員採用試験には、ギリギリかと思いますが、合格することができました。盲学校では、夏休みを利用して、高等部普通科と保健理療科では、二泊三日の宿泊訓練を行っていましたが、「阿久津さんは、教員採用試験があるのだから、無理しなくていいよ」との温かいご理解をいただいて、宿泊訓練は免除されて、勉強に集中することができて感謝でした。
★メモ★
その頃の盲学校では、現在ほど人事異動が頻繁ではなくて、新任の教師は10年程度異動しないで教育に専念できました。現在は4年に一度異動の傾向です。私が、盲学校に戻った時には、私がお世話になった先生方がほとんど全員いらっしゃいました。理療科をはじめ、普通科でも、杉山先生、旭先生、関根先生、小学部や中学部にも、担任をしていただいた先生方が沢山いらっしゃいました。教頭の沢村先生、校長の吉江先生等から、親切にご指導をいただけたことは感謝なことでした。最も心強かったのは、鈴木先生の姪にあたる、植木順子先生が中学部の英語の先生をなさっており、困った時には助けていただきました。
野球の話ですが、読売ジャイアンツの長嶋茂雄さんが、74年に引退して75年から監督となりました。しかし、その年は最下位となってしまい、市民会の友人、全盲二人で、後楽園球場に応援に行きましたが、その時もタイガースに負けました。残念!長嶋さんは、58年から74年までの選手生活で、私が大学3年の時に引退しました。「読売ジャイアンツは永遠に不滅です」は、有名な引退の言葉でした。長嶋選手の18年間と私の少年・青春時代は、重なりました。
76年の夏の甲子園高校野球では桜美林高校が初優勝をしました。我が家は大変な騒ぎ、父が一番喜んでいました。
この年のヒット曲は、子門真人(しもんまさと)の「泳げたい焼き君」が4百万枚のレコードを売り上げ、キャンディーズの「春一番」、ピンクレディーの「ペッパー警部」等もヒットしました。
小池上先生からの一言、1976(昭和51)年は田中角栄さんが逮捕されたり、モントリオールオリンピックがあったり、巨人阪急の日本シリーズで巨人が3連敗し、その後2連勝しました。長島監督の「人工芝が待っている」というインタビューがなぜか印象に残っています。結果は、阪急が4勝3敗で勝ったのですが、そんなこともなぜか思い浮かんできます。
図書館では、オープンリールからカセットに変わり、「読書革命」などといわれたものです。