第32話 演劇部の活動




 今回は、演劇と放送作品の思い出を書きたいと思います。私は1977年から91年度までの15年間、高等部の部活動の一つである、演劇部の顧問を致しました。当初から85年までの9年間は、小嶋千舟先生が同じく顧問として私を支え、助けてくださいました。このことは本当に感謝しております。学校祭は、最初の頃二日間行われていましたが、80年度を境に、運動会と1年おきに行われるようになりました。児童・生徒の減少、行事の見直しと授業時間数の確保に原因があったかと思います。また、その頃は普通科ばかりではなくて、専攻科の生徒たちも積極的に参加し、後輩たちにアドバイスをしてくれて、とてもよい刺激になりました。ですから、演劇・放送作品も充実していました。専攻科の皆さんも当時は三療の免許が国家試験ではなくて知事の検定試験でしたので、2学期までは比較的部活に参加できるゆとりがあったのかと思います。
 まずは演劇についてです。私が新規採用された1年目の77年はオー・ヘンリーの「最後の一葉」を30分程度の長さに脚色して行いました。主役は小川照子さんでしたが、専攻科からは小野和義さんも協力してくれて、ベールマンさんを見事に演じていました。有名な作品ですが、すばらしい演技だったと思います。
 さて翌年、78年には、専攻科生もグンと増えて、充実度も増しました。そこで、年度当初から、部員10名程度いたかと思いますが、学校祭に向けて頑張ろうという話となり、力が入りました。この年は、演劇の他にも、関東地区盲学校放送作品コンクールにも放送劇を出品するので、二つのことを、同時進行しなければなりませんでした。小嶋先生が大変苦労をなさって、あちこちの図書館や本屋を回り、作者は忘れましたが、「雨宿り」という、とてもすばらしい作品を見つけてくださいました。私たちみんなは大喜び、「よし、やろう!」との気運が高まりました。そして、夏休み中に演劇部の合宿をしようとなりました。そのことを学校に話をしましたところ、学校の中で合宿をしてはどうかという指導がありました。しかし私たちは「演劇の練習に集中したいので、別なところでやりたい!」と、強く希望を出して、結局、烏山青年の家で二泊三日の合宿をすることが認められました。小嶋先生のご尽力の賜物と思います。その合宿では発声練習から始まり、読みの練習、夜は作品についての鑑賞、どうしてこのようなセリフや考えになるのか…等、生徒一人一人が前に出て、実演し相互に意見交換をしました。その「雨宿り」について簡単に内容を書きますと、ある一人の公達が雨が降り出したので一軒の家に立ち寄って雨宿りをします。そこには美しい少女がいました。公達はその少女に一目惚れをしてしまいます。そして「やがて自分が出世して立派になったらおまえを迎えに来るからな」との約束をします。しかし、少女が何年待っても彼は現れませんでした。50年の月日が流れました。その日も雨が激しく降っていました。一人の身分の高い老人が雨宿りをもとめて訪ねてきました。そして雨宿りをしようと訪れた家が、50年前にお世話になった少女の家でした。少女は今では年老いた女性でした。50年前を思い出した公達は女性に、「結婚をして家庭を持ったのか?」とききました。女性は、「私はあなた様をいつまでも待ち続けておりました」と語ります。歴史の中では、太田道灌の話を思い起こさせるような話ですが、さらに美しい言葉のやりとり、心の動きの分かる物語でした。
 さて、学校祭の当日、その演劇は、約50分の長い舞台劇でしたが、若い公達と50年後の公達を二人で演じ、若い美少女と年老いた女性もそれぞれ二人に分かれて演じました。全てのキャストを思い出すことは残念ながらできませんが、公達二人は、専攻科1年の池田博さんと普通科2年の田島さんが演じました。若い女性を専攻科2年の小倉みち子さん、老女を専攻科1年の長美智子さんが見事な演技をして、聴衆に大きな感銘を与えました。この発表のためには、メイクや着物等家庭科の関根先生が東奔西走して平安時代を思わせる準備に協力をしていただきました。
 次は84年(昭和59年)の「雨の夜のストーリー」をとり上げたいと思います。これも1時間におよぶ長編ドラマでした。作者は阿久津啓司でした。ストーリーの内容は、サスペンスがかっていますが、母親と二人の娘たちが中心です。雨の降る夜に、彼女たちの家に一人の若者が強盗となって乱入して来ます。そのやりとりの中で悲喜こもごもの事実が明らかになります。強盗となった若者のは、渡辺茂之さんが演じました。その若者は、幼い頃に親と死別し、生きる手立てをなくして犯罪者となったのでした。そんなことから、話は進展して、そこの家の母親と二人の娘が実の親子ではなくて、母親の友人夫妻が突然の交通事故で亡くなり、彼女が友人の二人の娘を我が子として引き取ったことが明らかになります。そんな所に、警察官が、指名手配の強盗を探しにやって来ますが、母親と娘たちは彼を守り抜きます。最終的にはその若者が自首をするという結末になりますが、生徒のみなさん、登場人物になりきって、本当に泣いたり笑ったりの名演技でした。いつしか私の目からもほろりと涙が頬を伝いました。母親は大草美雪さん、強盗は渡辺茂之さん、二人の娘は潮田優子さんと、若くして亡くなった吉田美由紀さんが演じました。
 86年も忘れられない演劇の発表でした。この年の作品は木下順二作「夕鶴」でした。上演時間は50分だったと思います。もともとは、日本昔話の「鶴の恩返し」から、木下さんが、日本の風土に合わせてのすばらしい舞台劇にしたものと思います。ここでの見せ所は、宝塚ジェンヌではありませんが、高等部3年の青木みつえさんと、朝日百合子さんが、「よひょうとつう」を演じての大熱演でした。原作を全て覚えての演技でした。朝日さんは、一般中学校でも演劇部に入っていたこともあって、盲学校の私たちに良い刺激となって、相乗効果となったのだと思います。
 87年・88年は、さらに栃木県高等学校文化連盟の演劇発表に出ようということになり、宇都宮市文化会館小ホールでの発表をしました。この87年は、青木みつえさんが脚本を書いた「さざなみ」、88年は、すでに書かれてある本から選んだ「まいご」という舞台劇でした。いずれも、青木みつえさん、佐藤佳美さんがすばらしい演技を披露してくれました。
 89年は盲学校創立80周年でしたが、その頃から学校祭では演劇をする時間が少なくなり、20分程度の演劇を発表しましたが、93年以降は、盲学校独自の学校祭から他校との交流学習発表会へと目的が変わったこともあり、小学部・中学部では短い演劇発表はありましたが、高等部では舞台劇の発表の機会はなくなりました。
 さて次は放送作品です。私が盲学校の生徒の頃から、関東地区盲学校放送作品コンクールとして実施されていましたが、栃木県立盲学校では長い間出品していませんでした。78年から93年頃まで本校では参加するようになりました。私が関係したのは78年から91年までの14年間でした。それら全ては、今でも本校の図書館にCDになって保存されております。なお、この関東地区放送作品コンクールは録音による参加で、主管校では、審査員を招いて審査をしてもらうという方法をとっていました。参加校は6〜7校でした。今回はその中から思い出深い作品の紹介をいたします。
 78年の「風の中で」は、原作が盲学校の卒業生、北野良尊(よしたか)さんが書き下ろした短編を、私が放送劇用に書き改めた作品でした。物語は、視覚障害者(全盲)同士の結婚がテーマです。主演は、その年盲学校に入学した専攻科1年の池田博さん、相手役は阿部春江さんでした。この物語のポイントは、カラスはどんなに風が強く吹いても、風にまともに向かって立つために吹き飛ばされないという例えから、自分たちも目に障害があっても、困難に立ち向かって一緒に生きていこうという話でした。成績は関東地区では優秀賞でした。このドラマの中で、二人が喫茶店に入りコーヒーを注文しますが、そのウエイトレス役がクラスメイトの石井万智子さんでした。このとき共演した池田さんと石井さんが、卒業してから結婚をするという不思議な出会いもありました。
 翌年の79年は「明日になれば」という作品で、私が原案を書き、生徒たち皆で話し合って脚本を完成させました。これは、ある女子高生が化学の実験中爆発によって失明をしてしまっての病院生活が中心となります。意識が回復した彼女、そしてどうして目が見えなくなってしまったのか、その原因が分かっても、いっこうに視力の回復はありません。看護師さんから、慰められ励まされても、失意の中にいる彼女はある夜、自殺を考えて病院の窓を開けます。そこに秋の終わりを告げる虫の声が遠くから聞こえてきます。その時彼女は思います。「虫たちも生きている、精一杯生きている。私も今夜は生きることにしよう、明日になれば、何かが変わるかも知れない」と。マーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」にヒントを得てのドラマでした。専攻科1年生の長美智子さんの、視力が回復しないことを知った時の悲痛に満ちた涙の声に、私もジーンとさせられました。審査委員長からも、長さんの演技に対して「すばらしい」との評価を受けました。関東地区の大会では最優秀賞を受賞しました。
 80年は「鴨になりたい」という題で、視覚障害者の進路について、大学進学を目指す一人の盲学生をテーマにしての作品でした。逸話によると、アヒルは昔は鴨だったというのです。しかし、池の中で遊んでいて飛ぶことを忘れてしまい、ある日、飛び立とうとしても飛べなくなってしまったのです。この話から、私たちもアヒルでいないで鴨になって自由に生きていこうという話でした。この年は、栃木県立盲学校が当番校になっており、3名の方に審査員をお願いしました。一人はNHK宇都宮支局のアナウンサーの島様、二人目は朗読ボランティア「ひびきの会」の鶴田典子様、そして審査委員長は教育委員会の特殊教育室長の原照明先生でした。最優秀賞は横浜市立盲学校でユーモアに富む作品「初恋付き添い人」でした。栃木の作品は優秀賞だったと記憶しております。この年かと思いますが、筑波大学附属盲学校からの出品がありました。川島昭江さんが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を一人で朗読をしていました。本来ならば、実力的には追随を許さないものでしたが、残念ながら規定の30分を超えての50分でしたので、選外となってしまいました。それから10年後、川島さんはプロの語り部となり、現在もライブや講師として、全国で活躍しています。
 84年から86年頃にかけては、舞台劇と共に青木みつえさん、朝日百合子さん、佐藤佳美さん等のすばらしい活躍がありました。これら全ての作品は生徒と教師が話し合いを繰り返してのオリジナル作品でした。その後も、栃木盲からは93年まで参加していたかと思いますが、参加校も少なくなり、94年より名称も関東地区盲学校文化祭となり、盲学校音楽祭と放送作品等が統合されるようになりました。
 私にとりましては、77年から91年までの演劇部での活動は本当に楽しく、盲学校には数多くの女優、声優がいることに驚き嬉しかったことを今でも懐かしく思い出します。放送劇については、77年頃から80年頃まででしたが、朗読ボランティアの「ひびきの会」の峰岸欣子様にお願いして、録音による通信教育、つまり生徒の録音を聞いて、アクセントの指導をしていただき、大変勉強になりました。「ひびきの会」からは、寺中道子様が読書週間に盲学校に来て、読書の楽しみについてお話をしていただきました。これらのことを通して、盲学校と「ひびきの会」との交流が深められたことは誠に感謝なことでした。私は、先にも書きましたように、92年に中学部に移動して、演劇部とはさよならをして、岩井恵先生にバトンをタッチしました。放送劇で最も苦労をしたのは、まず最初に劇の声だけを録音するということでした。暑い夏のこと、土曜日の午後学校に残り、視聴覚室で締め切っての録音は大変でした。時には夏休みに学校に来て、視聴覚室で録音をしましたが、汗だくで、30分のドラマの音声を録音するのに3時間かかった時もありました。それが終了したら、私が生徒の時にしていたように、テープレコーダーを4台つないでの録音でした。音声・効果音・音楽を3台のマイクミキサーを使っての編集でした。この作業では放送部に入っていた経験が生かされました。最初はオープンリールでしたが、81年頃からはカセットテープレコーダーを使い、モノラルからステレオ録音へと変わって行きました。しかし、音声と最終編集は、質の良いオープンリールのテープレコーダーをかなり長い年月使っていました。
★長(小野)美智子さんからの一言★
 今から30有余年前の頃、私の青春時代でした。当時の先生方や友達のことが懐かしく思い出されます。陸上で汗をかいたり、演劇部で学校祭の時に「おばあさん」を演じたり、友達と恋愛の話をしたり、思い出せないこともありますが、みんな楽しく、輝いていたように思います。阿久津先生の授業では、英語で歌を歌ったり、おもしろい発音の単語を教えていただいたり、とても楽しい授業でした。
★メモ★
 「夕鶴」は原罪をテーマにしての舞台劇と言われています。見てはいけない、してはならない誘惑に負けてしまう、人間の弱さを伝えています。旧約聖書にある、アダムとイブの話が原点にあります。三浦綾子さんの「氷点」にも同様の主題となっています。
 小嶋千舟先生は、1999年5月29日、56歳で、現職の時に、病のためにお亡くなりなりました。退職したこんにち、より親近感と懐かしさを感じます。



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