第33話 弁論とスピーチコンテスト




 私は、母校の教師になった時に、決心したことが一つありました。それは、自分の得意とする弁論と英語のスピーチコンテストに生徒が参加して、彼らのもっている力を伸ばしてやりたいとの願いでした。まず弁論について書きたいと思います。
 高校生の時に私は斉藤先生の指導を受けて、弁論大会に2度参加しました。そして私が就職してからも、斉藤先生から、「阿久津さんは弁論が得意なのだから、是非生徒たちを指導して欲しい」と、改めてお話がありました。斉藤先生は、私が就職してから5年間、高等部の主事をなさって、退職なさいました。就職当時は、以前と同様に、校内では弁論大会を行っていましたが、数年経つと実施されなくなりました。しかし、関東地区の弁論大会は続いていましたので、私は、1977年から退職するまでの2011年度まで、多かれ少なかれこの弁論の指導にたずさわることができましたことは大きな喜びでした。最大の目標は点字毎日主催の全国盲学校弁論大会に、栃木盲学校から代表者を参加させたいとの目的がありました。私が栃木盲学校に戻って来た時には、一堂に会しての全国大会ではなくて、全国を9ブロックに分けての予選会を行ってからの全国大会でした。ですから、まずは関東地区盲学校弁論大会で優勝をしなければなりませんでした。
 さて、その関東地区大会ですが、私が高等部にいた76年から91年までの間に、本校から参加した生徒は8人程度いたと思います。結果は、大抵の場合2位で、涙を飲んでいました。私が審査をすると(依怙贔屓もありますが)、3回位は優勝ではないかと思ったのですが、とにかく第2位が続きました。8回の内2回は、残念ながら入賞することはできませんでした。多くの場合、力が入りすぎて短調でしたし、内容も、もっと文の構成に工夫をすればよかったのかも知れません。しかし、ただ1度84年に普通科3年の吉田美由紀さんが、ついに第1位になり、大阪へ行く切符を手にしました。彼女は言うまでもなく女性です。私だけが引率するわけにはいきません。私は、妻と共に自己負担で大阪へ行くつもりでおりましたところ、事務長さんが、点字毎日新聞に電話をしてくださり、私たち夫婦の交通費と宿泊費を出していただけることになりました。本当に感謝しました。実はこれにはさらに付け加えなければならないことがありました。後日書きますが、我が家には、その時、5歳の息子がいたのです。さらに、その弁論大会の日と、弟の結婚式が重なってしまいました。悩みに悩んだ結果、弟にはひたすら謝って、「私には甲子園球場に行くようなことなので許して欲しい」と謝りましたところ、分かってもらいました。そのようなわけで、84年10月12日(金)私たち4人は電車を乗り継いで大阪のホテルに行きました。全国9ブロックから代表者9人の他に、大阪府立盲学校からはもう一人参加が認められておりました。前夜祭では、交流会が行われ、生徒たちは緊張しながらも、みな自信にあふれていた雰囲気を感じました。翌日13日、土曜日の午後、場所はさだかに覚えていませんが、大阪市内のホールで行われました。審査委員長は、日本点字図書館長の本間一夫先生でした。関東地区代表の吉田さんも、普段の練習以上の堂々とした発表でした。私のジャッジでは、3位にはなれるだろうと期待していました。ところが結果は残念ながら入賞することはできませんでした。閉会式後、ある審査員が、吉田さんに「私の審査ではあなたが1番だったのだけれども、盲学校の中での経験はインパクトが弱かったのかも知れませんね」と、励ましてくださいました。吉田さんの弁論の主なところを書きますと、盲学校には、ひとつの大きな問題があります。それは児童・生徒の減少によって、生徒が孤立化・萎縮化してしまうのではないだろうか、との問いかけでした。そして彼女の演劇部での経験を通して、私たちの学校の生徒がどんなに少なくなっても、互いに心を開き語り合い、議論し合い、社会に向けて盲学校から私たちの主張を発信していこう。このような内容だったかと思います。
 全国盲学校の弁論大会の傾向では、奇しくもある人が言っていましたが、「これは、辛い身の上話をした人の弁論の方がいいのだな」との声もありました。必ずしもそうとも言えないと思いますが、最近の弁論大会は、以前は大阪・東京・名古屋と3箇所で行われていましたが、最近は、全国盲学校長の会議の結果からかも知れませんが、審査委員も地元の有名人が審査委員となり、地元の生徒が入賞する傾向があるように感じています。私たちの学校で何人かの教師が聞いても、こちらの人が1位ではないかと思う人が3位だったりします。水泳や陸上競技ではないので、審査は本当に難しいと思いますが、みんなに納得のいくような審査を今後期待しております。例えば、中途で失明した人、外国から日本に留学生として来た人が多く入賞していますが、外国から日本に留学している人には、特別賞がよいのではないかと私は思います。文章がすばらしくても、日本語ではよく聞き取れず、画面には字幕が出ていたような時は、つくづくそのように感じました。
 さて、この経験は吉田さんにとっては大きな自信になりました。彼女は普通科を卒業すると、埼玉県所沢にある国立リハビリテーションセンターで、電話交換手の研修を受けて地元のホテルでの電話交換手として働きました。その後、東京練馬区にあるコンピュータ関連の仕事に転職して、明るく楽しい声をテープ雑誌で聞かせてもらいました。次は、セールスレディーを宇都宮で活発に行い、最終的には栃木盲学校の専攻科に入学しました。残念ながら数年前に病のために若くしてこの世を旅立ってしまいました。彼女は短い人生ではありましたが、弁論発表の通り、絶えず走り続けた人生だったと思います。
 さて、もう1回、本校から全国大会に行くチャンスがありました。2001年関東地区盲学校弁論大会が栃木盲で行われました。場所は、栃木県福祉プラザで聾学校の高校生やボランティア、一般高校からも聞きに来てくださった方が多数いました。本校からは基準弁論一人、そして弁士が二人出場しました。この時は、15人程度の参加があったと思います。私は高等部に戻って来て2年目でしたが、国語科の教師と手分けをして3人の生徒を指導しました。その内の一人がT君でしたが、そこにいた多くの人が、T君が優勝するだろうと思っていました。ところが規定の7分を数秒越えてしまいました。練習では、6分40秒程度で、間のとりかた、強調すべきツボどころ等、何ら失敗はなかったのです。ただ一つ、余りにも落ち着きすぎていて、時間を忘れてしまったのでしょうか。7分を超えたので、10パーセントの減点で、残念ながら2位でした。大阪へ行き、入賞すれば中国へ行くプレゼントもあったのですが、本当に残念でした。最近では、2009年に3位、2010年3位と健闘しています。以前、弁論大会は、「西高東低」と言われていましたが、最近では、栃木を飛び越えて、お隣の福島盲学校の生徒が優勝したケースも出てきました。
 全国盲学校弁論大会の他に、忘れられないエピソードがあります。栃木県では、かなり長い歴史をもっていましたが、中央大学栃木県人会というのがあります。多くの人たちが弁護士になっていらっしゃいます。その県人会主催で高等学校弁論大会が行われていました。私は高校生の時には参加しませんでしたが、先輩の中には出場して優勝をした人も何人かいました。77年から81年だったかと思いますが、盲学校から参加して5年間連続優勝をしてしまいました。そんなある時、中央大学の弁論大会の担当の方が盲学校に来られて、「今回をもって、中央大学弁論大会は終了させていただきます」との、挨拶をいただきました。理由を聞いてみますと、他校の生徒たちから、盲学校の生徒たちが参加して、自分の経験した苦しみや悲しみを訴えられると、私たちには勝ち目がないではないか、との声が主催者にあったそうです。これは、全国盲学校弁論大会と同じ流れだったのでしょうか。その他にも、真岡高校や、群馬県太田高校でも弁論大会が行われ、栃木盲学校からも何度か参加しておりました。私たち視覚障害者にとりましては、発表するよい時でしたが、時代と共に弁論大会はいつしか消えて行きました。そういえば、成人の日である1月15日には、NHKで「青年の主張」、その後「青春メッセージ」が長く行われていましたが、いつの頃からかなくなってしまいました。ワンパターンが、時代に合わなくなったのでしょうか。真面目に一生懸命に生きている人、チャレンジ精神の旺盛な人が入賞していましたが、順位をつけることの難しさがその根底にあったのではないかと思います。また、順位をつけることに対して異論が出たのかも知れません。
 さて次は、英語スピーチコンテストです。これは現在も栃木県では行われています。私にはできなかったことのひとつですが、高校時代に英語のスピーチコンテストに参加するチャンスはありませんでした。理療科でしたので実力不足もありました。私の教員生活でスピーチコンテストにチャレンジしたのは3度ありました。
 1回目は79年、高校2年生のH子さんでした。発音が大変綺麗で優秀な生徒でした。そこでスピーチコンテストに参加することを勧めましたところ、喜んでノミネイトしました。放課後、一緒に原稿を書き、最終的にはALT(外国語指導助手)の先生にチェックをしていただきました。その結果、宇都宮中央地区では優勝し、栃木県大会では第2位になりました。これは、私の期待を超えたすばらしい結果でした。
 2度目は89年、普通科2年のE子さんでした。同じく中央大会で優勝し、栃木県大会では第2位でした。内容は、彼女が、確か沖縄県の外国の人の家にホームステイした体験を通して、視覚障害者にとって、アイコンタクトの難しさを痛感したことでした。その経験から、私たちは自分の意見や考えをしっかりともち、積極的に社会参加をしていかなければならないという内容でした。この時ばかりは1位ではないかと私は聞いていましたが、栃木女子高校の生徒さんに1位を譲らざるを得ませんでした。彼女の英語も実に綺麗でした。その時、私が感じたのは、日本人が英語を話す場合は、余程のことでもない限り、男性は女性に音声に関してはとてもかなわないな、ということです。E子さんは、その実績も認められ、翌春のアメリカ高校生スタディーツアーの一人に選ばれて2週間、15名の高校生の一人として参加することができました。卒業後は、大学に進学し大変優秀な成績だったと聞いております。
 3度目は、私が中学部に移動していた93年のことでした。1年前から盲学校の中学部には、M君という帰国少年が入学していました。先ほどの感想とは矛盾していますが、彼は5歳から12歳まで、父親の仕事の関係でアメリカで過ごしました。弱視でしたが、地元の小学校に通っていました。私とは1対1の英語の授業でしたので、中学校の教科書を使わないで別な内容を学習していました。彼の課題は英語よりも日本語でした。そのようなこともあり、中学3年生までに英検2級をとっていました。その彼が2年生の時に、帰国子女を対象にしたスピーチコンテストに出ることになりました。当日は、彼と同じような経験をした人たちが45人いました。そして彼が見事に栃木県第1位となりました。タイトルは「Open the door」でした。発音に関してはみな優劣をつけることはできません。勝因は、彼のアメリカと栃木盲学校での体験、そして未来に向かっての大きな夢を語ったのがよかったのだと思います。後日、栃木放送にも招かれてのインタビューで、立派に受け答えをしていました。結果はいずれにしても、このように盲学校を飛び出して同じ中学生・高校生と肩を並べての大会に参加することによって勇気と自信が与えられたと思います。
 英語について補足しますと、全国で行われている、英語検定試験が、視覚障害者にも受験できるようになったのは1980年頃からと記憶しております。関東地区盲学校英語部会で議論となり、筑波大学附属盲学校の英語の先生であり、部会長の山岸先生が、全国盲学校長会に要望して、英語教育検定会で認められ、当初は、筑波大学附属盲学校と大阪府立盲学校の二つの会場で実施されていました。95年頃から、地元の中学校でも受験が認められ、栃木盲学校からは陽北中学校で受験できるようになりました。受験者が多ければ、盲学校の中でも可能となっております。最近本校から受験する人が少ないのは寂しい感じがします。点字受験者には、1.5倍の時間が与えられております。盲学校の現役選手にもさらなる努力を期待しております。本校からは、英検2級をパスした人が数名、準1級をパスした人が二人います。私ですか? もっと若かったら、受けていたかも知れません。1級に合格するためには、英語ができるだけでは合格できないのです。地理・化学・生物学・心理学・医学等限りなく広い知識と語彙力が求められているのです。そういう点では、視覚障害者にとってのハンディは大きいと思いますが、全国には、1級に合格した視覚障害者が5名程度はいると聞いています。



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