第34話 大学進学と社会参加(佐藤佳美さん)




 私が勤務した1976年から2012年までの間に、大学に進学した生徒は20人におよびます。その内3人が筑波技術短大、6人が筑波大学教員養成部に進学しております。私が、主に関係したのは普通科の大学進学でした。この36年間で、栃木県立盲学校から進学した大学名を順不同ですが列挙します。青森大学2名、東北福祉大学1名、花園大学2名、仏教大学1名、聖学院短大1名、聖学院大学1名、東洋大学1名、桜美林大学1名、和光大学1名、武蔵野音楽大学1名、千葉県キリスト教短大1名、東京女子大1名、小学部から筑波大学附属盲学校へ進学して、東京大学へ入学した人が1名でした。また、この間アメリカのオーバーブルッフ盲学校に1名、カナダのカルガリーにあるコミュニティーカレッジに留学した人が2名いました。これらの生徒の専攻した科目の多くは福祉と英文学でした。東京大学へ進学した人は理科系だったと思います。栃木県では、平山さんが74年に栃木県身体障害者福祉会館(現・栃木県視聴覚障害者情報センター)に就職してから、点訳者の養成と共に、特に英語点訳グループを立ち上げて、そのボランティアの方たちが先に進学した人たちの教科書点訳の支援に協力してくださり、学習環境が驚くほど改善されました。特に、90年頃からパソコンが普及し、点訳者もパソコンによる点訳をするようになり、学生たちの教科書、特に英語の点訳は、栃木県が他県に比較しても群を抜いていたと思います。本校から3名の大学生が誕生した年には、英語だけで5千ページに達っしたと聞いております。約50冊の本になります。現在は、統合教育を受けている児童・生徒のために、ボランティアの方たちの点訳活動による支援が継続されております。ここでは、その一人、佐藤佳美さんに原稿をお願いしました。協力を感謝いたします。
 以下、佐藤さんの原稿です。
 私が阿久津先生に英語を教えていただいたのは中学2年生の時でした。多分その時に、鍼灸以外に視覚障害者ができる仕事があることを知りました。数年後、阿久津先生にYMCAを紹介していただき、ボランティアを始めるようになりました。そこで出会ったのが、その時に総主事であり、幼稚園の園長先生だった山田さんでした。大学に進学してからはほとんどYMCAには顔をだしていませんでしたが、阿久津先生にお口添えをいただき、福祉実習はYMCAの老人ホーム(マイホームきよはら)でさせていただきました。
 一番の問題は就職でした。いろいろ考えましたが、障害者という私ではなく、私を1人の人間として認めてくださったYMCAの山田さんに、阿久津先生を通して働きかけていただくことにしました。面接の結果、さくらんぼ幼稚園で仕事をさせていただくことになりました。さくらんぼ幼稚園で感じたことは、以下の本に掲載されています。下記に引用いたします。
 書名:教壇に立つ視覚障害者たち
 著者名:全国視覚障害教師の会(JVT)著
 出版社:東京 日本出版制作センター
 ISBN:4-902769-08-1
幼稚園の教員として
 1.子どもと私の会話から感じること
 「目が見えなくて幸せ」と感じるようになったのは、私が幼稚園の教員になってからです。この園に通っている園児と保護者のほとんどが私のような視覚障害者と関わることが初めてのようですので、おもしろい会話がたくさん飛び出してきます。子どもと私の会話をご紹介させていただきながら、私の考えを書きたいと思います。
 子どもと私の会話 1
 子ども「先生の目はなんでおばけみたいなの?」
 私「先生の目が他のお友だちと違うことがよくわかったね。先生は目が見えないから皆とは違う目なんだよ。」
 こども「お薬飲んだら?」
 私「病院に行っても、お薬を飲んでも治らないんだよ。」
 子ども「ふうん。」
 子どもたちは感じたことを素直にきいてきます。私は子どもの素直な興味をもっとも大切にしています。なぜならば子どもは初めて見る私の目を単純に「お化け」と言っているだけなのです。差別をしているのではないのです。もし、そこで、他人が「そんなことを言ってはいけません。」と子どもに注意したらどうでしょうか?子どもはもう私とは関わらないと思います。多くの大人たちは「そんなことを言っては障害者に失礼では」と考え、子どもを叱ってしまうようです。しかし、いつも健常者の中で生活している障害者は子どもの言葉で傷つくことはないと思います。
 子どもと私の会話 2
 子ども「先生、どこへ行くの?」
 私「事務所だよ。」
 子ども「つれて行ってあげる。」
 私「ありがとう。助かったよ。」
 私を理解して初めて子どもの心に優しさが生まれます。ですから、私は子どもの言葉(大人ならば一般的にはドキッとする)も大切にしているのです。そして、子どもたちは他人の役にたつことにより、自信に繋がり、喜びを感じるようになっていきます。
 子どもと私の会話3
 私「ちょっと佳美先生通りたいんだけど。」(廊下で座り込んで遊んでいる子どもたちに話し掛ける)
 子ども「こっちだよ。ここならば通れるよ。」
 私「(笑いながら)こっちは壁だから通れないよ。」
 子ども「(笑いながら)なあんだ。わかっちゃったんだ。」
 私「触れば壁だってわかるよ。」
 私は、この子どもの行動も意地悪ではないと思います。大人は見えないということを想像して考えることができますが、子どもには難しいこともあります。ですから、見えない人はどのように理解しているのかを関わりながら確かめているのだと思います。しかし、このようなことを書くと、「小さい時にきちんといけないことは注意をしなければ、将来子どもが意地悪になるのでは」という意見を耳にすることがあります。子どもがきちんと成長していけば、「なぜ、あなたはお化けの目をしているのですか?」などと中学生・高校生はきかないでしょう。もし、そのようなことを大きくなって言うとするならば、幼児期のしつけではなく、きちんと精神的にも成長していないからではないでしょうか?
 2.仕事内容と障害に対する子どもの年齢別の理解
 私は毎日午前中は未就園児の親子教室を、昼食から降園までは決まったクラスで、その後は預かり保育で仕事をさせていただいています。親子教室も、預かり保育もパートの教員といっしょに仕事をしています。現在は毎日の活動計画、保護者へのお知らせの作成などの、事務処理が多くなっています。昼食から降園の時間までは、子どもと私が自由に関わることができる時間ですので、もっとも大切にしています。子どもは私と関わりながら自然に障害を理解しているようです。年長児は、私が見えないことを理解して関わります。手を引いたり、鬼ごっこなどをしていっしょに遊んだり、絵本をいっしょに読んだり、楽しい時間をすごします。年中児は、私の目と他人の目の違いに気がつき、興味をもち始めます。しかし、年長のようなきちんとした理解はできません。年少児は、私の目の違いに気がつきません。ですから、目の前に「これ見て?」と持ってきます。私は必ず触ってそれを評価します。そのように関わっていると、理屈ではなく、私の手に物を渡すようになるのです。親子教室の子どもたちも年少児と同様です。出席カードに貼ってある点字は「佳美先生の字」だということがわかる程度です。このように年齢別に考えると子どもの1年の成長は大きいことがわかります。そして、小さくても私の手にものを渡すように、自然に関わり方を身に付けているようです。
 3.視覚障害教員の役割と課題
 目が見えない人間と関わることで、子どもも保護者も障害者に対する考え方が変化しているようです。そして、障害者が特別な社会に生きている遠い世界の人間ではなく、同じ社会に生きている人間として受け入れられるようになるのでしょう。私は目が見えないことがどんなことであるかを関わりながら学んでいただきたいと思います。仕事をする中で、特に事務処理には健常者の手を必要とします。ボランティアの方や、同僚の教員に手伝っていただくこともしばしばです。しかし、私の仕事を手伝うことで、嫌な顔をされたことなど一度もありません。本当に恵まれた職場だと感謝しています。近頃は、新しい手遊びや工作などをインターネットや本で調べることが増えています。保育の経験があるボランティアが必要であると感じています。しかし、目が見えたならば多くのボランティアとの関わりも、子どもたちとのちょっと変わった関わりも体験することができなかったでしょう。障害は必ずしもマイナスではありません。私の場合は、むしろ、プラスになっています。私は、多くの人と関わる中で、障害は私の大切な個性であることを伝えていきたいと思います。阿久津先生のように公務員で仕事をなさっていた方は、受験して、実力があるから就職できたのだと思いますが、私のように民間の職場で仕事をしている人は、私の実力ではなく、「障害者を理解し、採用しようと決断してくださる方」がいたからだと思います。これは後から聞いた話ですが、私がボランティアをしている時から知っている園長先生をはじめ、たくさんの先生方が、「自分たちの給与を減らしてでも視覚障害者の私と仕事をしたい」と話し合ったということがあったそうです。もちろん、視覚障害者で、健常者と同様の仕事ができるように努力を惜しまない立派な方もいらっしゃるでしょう。しかし、私の場合は、幼稚園教諭の資格もなく、音楽全てが不得意だったのです。私の状況を見てもおわかりのように、視覚障害者の就職は、実力以上に、良き理解者がたくさん必要だと思えてなりません。
 佐藤さんは、3年前に幼稚園を退職して、現在は栃木県視聴覚障害者情報センターで、平山さんの退職後働いております。
 英語点訳グループ・brl(ブレールの点字略字)原田さんの感想
 早いものでIBMの点訳ソフトの開発と共に始められた英語点訳は、22年になります。それまで点字板・タイプライターで打っていた点訳が、パソコンで出来る様になったのは、本当に夢の様な事でした。阿久津先生の「大学進学と社会参加」に書かれている、3名の大学生の5千ページの点訳が出来たのも、パソコンのおかげです。それでも 当時はプリントしてお渡ししたので、間に合わないとお母様が福祉会館まで取りに見えたり、紙代が何万円にもなるという事がありました。ここ10年位は各大学でボランティアの皆様がいらっしゃるらしく、大学生の点訳は頼まれなくなりました。ちょっと寂しいですが、とても嬉しい事です。点訳は一人で出来るものではありません。こんなに長い間、助けてくれている仲間がいるから、また利用して下さる方がいらっしゃるから続けられます。これからもどうぞ宜しくお願い致します。
 佐藤佳美さんが情報センターに来られて4年になります。私達はいつも元気をもらっています。佳美さんが幼稚園の先生をなさっていたと伺って、また「教壇に立つ視覚障害者たち」を読ませていただいて、30年前の友人の話を思い出しました。彼女はご亭主の留学の機会に二人の子供を連れて、サンフランシスコについて行きました。小1と幼稚園生だったので、何とかなるだろうと、地元の学校に行かせました。驚いた事に障害のある子供も、無い子供も同じクラスだったそうです。もうひとつ驚いた事は、誰でもボランティアとしていつでも自由に教室にいられるんです。彼女も日本では出来ない経験だと思い、参加したそうです。ところが何を手伝ったらいいのか、迷ってしまったそうです。そしたら子供達が、「A君は、ここだけ手伝ってあげたら、あとはパーフェクト」、「B君は、ここだけ手伝ってあげたら、あとはパーフェクト」と教えてくれたそうです。それにはびっくりして、とっても勉強になると、彼女は感激してエアメールをくれました。
 佳美先生と一緒の時間を過ごした子供たちは、一味も二味も違う素晴らしい少年少女になっていると思います。友人はいつも子供達が優しいと話していますから。



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