第35話 学校行事の思い出




 今回は、教員生活を振り返っての幾つかの行事について書きます。私が盲学校に教員として戻って来た時には、普通科になっていましたが、それは授業ばかりではなくて、学部の行事もかなり変わっていました。今までは理療科でしたので、特別活動は、学校行事がメインでした。しかし、1993年の理療科国家試験の実施、2001年からのスクールバス民間委託等によって、行事もめまぐるしく変わりました。
1 修学旅行の思い出
 76年から91年までの16年間で、私が高等部の修学旅行に同伴させていただいたのは3回でした。全盲の私にとって、生徒の時の修学旅行とは異なり、教師としては、生徒たちの指導は難しく、むしろ自分自身の行動にも制約があり、他の教師や生徒たちにお世話になることが多かったと思います。
 1回目は、78年(昭和53年)、普通科1年の時に副担任をした生徒の皆さんとの4泊5日の旅行でした。私は当時27歳でしたからまだ元気がありました。行き先は詳細には覚えていませんが、なぜか、三重県・和歌山県方面でした。しかも、盲学校から観光バスをチャーターしての旅行でした。普通科3年生と保健理療科3年生、合わせて20人程度いたと思います。それは、私が大学生時代に乗ったアメリカの長距離バスのような印象でした。1日目は、6時間か7時間かけて、伊勢神宮に行き、その他の詳しい日程は覚えていません。那智の滝を見学したり、串本町にある水族館に行ったりしました。和歌山県では当時新婚旅行で有名な白浜温泉に泊まりました。そこでは、水族館等にも行ったのかも知れませんが、記憶は遠い彼方に行ってしまいました。雨の量で有名な三重県尾鷲市などの名前を聞きましたが、バスに乗ること、いったい何時間乗ったのか。生徒たちもガイドさんの説明は上の空で、眠ったり、遊んだり、おしゃべりをしていました。27歳の私ですから、どうして京都方面に行かないのか、質問をすることなどできませんでした。
 2回目は、7年後の1985年でした。その頃は、生徒が激減し、私は長い間お世話になった関根玲子先生の副担任として普通科2年生の女性2名と一緒でした。普通科と保健理療科の2・3年の4クラス、合わせて15人前後だったと思います。この時は、大阪、奈良、京都の5日間、思い起こせば私が3年生の時とほぼ同じコースを電車やバス、時にはタクシーでクラス単位で移動をしました。皆さんよくご存知のルートです。ただ、私たちが3年生の時に交通事故で行けなかった、大阪城はしっかりと見学をしてきました。当時使われていた大筒といわれる大砲に触れたり、城の石垣のものすごいこと、豊臣秀吉の権力のすごさを感じました。京都では、哲学の道を歩いて、豊臣秀吉の妻、ねねさんを祭っている高台寺の直ぐ傍を通りましたが、ねね様の気持ちを思うと複雑でした。夫の秀吉を見送り、秀吉が淀に産ませた豊臣秀頼を始め、豊臣家の滅亡を目の前にして、ねねさんは、なにを思ったのでしょうか。京都では、女子2名でしたが、希望を聞いたら、京都の歌でも有名な京都大原三千院に行きたいとのことで、ゆったりと歩いてきました。静かな田園地帯で、古風な感じがしました。歌になるのもよく分かりました。のんびりとした古都の風景をイメージできました。それから私が行きたいと申し出た寂光院へ行きました。寂光院には、平清盛の娘・徳子が祭られている寺です。源平の戦いで敗れた平家、平清盛の娘、徳子(建礼門院)さんが壇ノ浦で戦いに敗れ、安徳天皇と共に「極楽浄土に行きましょう」と、幼い天皇を抱きつつ海に飛び込みましたが、天皇は亡くなりましたが、徳子は海から助け出されました。その後、徳子は尼になり、寂光院で残された人生を、安らかなる魂のために生涯を過ごしたと、新平家物語で読みました。邸内は静まり返り、ししおどしの音が響き渡っていました。その寂光院で、私は徳子が着ていたという着物に触れることができました。8百年を超えて、歴史の重みと深さを感じて、人生とは何と哀れなことかと、教えられました。京都はやはり歴史と伝統があり、1千年余に渡る日本の歴史の中心地で何度行ってもあきません。この年は、阪神タイガーズがぶっちぎりで優勝した日の次の日に京都に入ったこともあり、その時に、観光バスを1日利用しましたが、ガイドさんの声ががらがら声でした。みなさん、「タイガーズが優勝したんや!夕べ騒ぎすぎて声ががらがらで御免。そやから今回は許してや…」でした。その年は、バース・掛布・岡田・田淵等がおり、ジャイアンツはお手上げでした。
 3回目は、3年後の88年でした。その年も、関根玲子先生とご一緒させていただきました。普通科と保健理療科の2・3年の4クラス、合わせて15人前後だったと思います。その頃は、新幹線を利用しての移動でした。その年に瀬戸内海を渡る「瀬戸大橋」ができたので東京から岡山県に行き、そこから電車で瀬戸大橋を渡りました。橋の全長は12キロあまり、海の上を走る電車に心躍らせた記憶がよみがえります。その夜は香川県の善通寺に泊まり、翌日は金毘羅山に、息を弾ませて必死に階段を登りました。私たちがゼイゼイ言っている横を、籠に乗ったお客様が通りました。その料金が5千円と聞いて、大名のような気分で、さぞかしいい気分だろうなあと、羨ましく感じました。私たちは785段の階段を上り、目的を達しました。実はまだまた階段は上まであるとのこと。全部で1300段と聞いて、ビックリしてしまいました。帰りは階段ではなくて、坂道になっている道をゆっくりと降りて来て、途中で讃岐うどんを食べましたが、その美味しかったこと。ただ、その年は水不足で、確かどんぶりでは無くて、使い捨ての器だったと思います。四国では、源平盛衰記の後を辿り、徳島県に行き、源氏に追われ最期を迎える平家の哀れな道を辿りました。阿波鳴門の渦潮を経験するということで、観潮船に乗りました。海の渦が巻いている時は船がかなり激しく揺れており、これはとても貴重な体験でした。それから私たちはバスで海の上を渡る橋を通り兵庫県淡路島に行きました。一泊してからフェリーで神戸に渡り、異人館を見学し、六甲山をロープウエーで登り、歩いて下山しました。この辺も源平の戦いでの舞台になったと思います。また須磨町の海岸を源氏物語をしのびつつ散策しました。これらの修学旅行で、栄枯盛衰の源平の戦いや、豊臣・徳川の権力闘争とその最後の哀れ、無常感を味わうことができました。
2 宿泊訓練について
 高等部普通科全員と保健理療科の1〜2年生5クラスで、夏休みに二泊三日の宿泊訓練として、那須町高久にある松原山荘を使わせていただいての宿泊訓練をするようになっていました。この建物は、宇都宮大学付属小学校が所有しており、それを使わせていただいての宿泊でした。幾つかの棟に分かれておりましたが、その部屋には10畳の部屋とトイレ、それに調理場があり、お風呂は別棟にありました。私が参加したのは77年から91年まででしたが、この宿泊は、普通科と保健理療科をバラバラにして生徒5人程度のグループ編成でした。二日間の夕食・朝食は生徒たちが考えて調理をするのです。足りないところは教師が手伝うのですが、職員はサポートに徹することになっていました。昼間は山の中なので、当時から流行したオリエンテーリングや茶臼岳に登山をしました。その宿泊訓練の中で、私には忘れられない思い出があります。それは1979年の夏の宿泊訓練でした。その年に栃木県野木町から、大草美雪さんという人が、高校1年生で入学して来ました。彼女は、中学生の頃から次第に視力がなくなり、盲学校に入学した時には、全盲になっていたかと思います。しかし、調理については、どうしてこんなに知っていて見事にできるのかと驚きました。私が「大草さんは、どうして何でも知っているの?」と、聞きましたところ、「はい、家で毎日やっていたので、見えなくなってもその感覚でやればたいていのことはできますよ」との、実にさりげない返事でした。なるほど、家庭での実践が、例え視力を失っても、残された感覚を利用してやればできるものだと感服したことをハッキリ思い出すことができます。家庭での実践を、言い換えれば、自らのリハビリテーションと言っては失礼でしょうか。この松原山荘はとても使いやすく、全盲の人たちにとっても分かりやすい構造でした。当時理療科の先生をしていた若林先生が、大草さんの作ったカレーライスを「旨い!旨い」と、食べていました。もちろん私も美味しくいただきました。朝ごはんもカレーでしたが若林先生は、カレーライスが大好きで、3食とも3日間食べても自分は飽きないよ、と言っていました。若林先生はその後教育委員会に転勤され、盲学校の校長で退職されました。その大草さんは現在、那珂川町馬頭で、夫の弘明君と二十歳になる息子さんと楽しい家庭生活を送っています。今でも美味しい家庭料理を作っていることでしょう。
 この3日間の食事のメニューは、1日目の夜がカレーライスと西瓜、二日目の夜はうどんとその他おかずがあったかと思います。宿泊訓練はその後場所を変えたりしましたが、93年まで継続しました。キャンプには困ったキャンプもありました。それは、89年に、馬頭町のキャンプ場を利用してのキャンプのことでした。そこはロッジのようなもので、寝る部屋はいいのですが、トイレが山道を下って行かなければなりませんでした。ロープをはり、工夫をしたのですが、全盲生にとって、夜中一人でトイレに行くことはできませんでした。キャンプが終わってからの、ある女子生徒からの一言が私の心に今でも思い起こされます。「先生、あんな所をどうして決めたのですか。私は夜、トイレに行かないように水を飲まないように我慢をしましたよ。もっと私たちのことも考えて欲しかった」との、感想でした。お風呂は、1日に1度入れば良いのですが、トイレだけは、人によって異なります。いつでも一人で行きたい時に行ける環境を配慮しなければと痛感しております。
3 スキー教室について
 77年頃から、高等部全体で日光高原ホテルを利用して、2月に一泊のスキー教室を実施しました。高等部も普通科となり、体育の若い先生を含めて多くの若い先生が転勤して来るようになりました。そんなこともあり、盲学校にいる間にできるだけ多くの経験をしましょうとのことで始まりました。その内に、中学部、小学部も雪上活動・雪遊び等での行事となりました。高等部の弱視者の中には、スキーの経験をした人もいて、彼らは大喜び、スキー靴をはき、リフトに乗って風を切って滑っていました。1日に7回とか、全盲の生徒でも、先生についてもらって、リフトを利用して滑れるようになった、運動神経のよい生徒もいました。私は、スキーをやろうかと思いましたが、滑って転んで、立ち上がることができません。何と運動神経が鈍いことか。やむなくそり遊びのグループに入れていただきました。どちらかといえば、ホテルにある温泉で温まりながらの、先輩の先生方とのお話が楽しかったです。寒さには超弱かったのです。このスキー教室は、93年の国家試験導入と共に検討がなされ、95年をもって中止となりました。中学部でも日帰りスキーとなり、94年以降もしばらくは続きましたが、生徒の減少や障害の重度化に伴って、断念せざるを得なくなりました。89年だったと思いますが、原校長先生がいらっしゃいました。先生はスキーに関しては実力ナンバーワン、若い先生たちに声をかけて、朝からマイナス10度以下の所でモーニングスキーをしていらっしゃいました。退職後もスキューバーダイビング等、多趣味の校長先生でした。89年は創立80周年の年でしたが、お嬢さんが歌手になっており、盲学校でショートコンサートをしていただきました。
4 スケート教室について
 高等部では、スキー教室と同じ頃に、宇都宮市内にある御本丸スケートリンクで、スケート教室が行われていました。その後、今市市に今市スポーツセンターができてから、そちらでスケートをするようになりました。これは、障害を併せ持つ児童・生徒は、現在も実施していますが、当初は高等部全体でスケート場を貸切でおこなっていました。しかし、土曜・日曜日の週休二日制の導入、国家試験への制度変更と共に止めざるを得なくなりました。私としましてはスキーよりはスケートの方が何とか楽しむことができました。スキーに比べると、スケートリンクは、広さが限られており、音の反響で方向を把握することができたからだと思います。
5 中学部での宿泊訓練について
 私は92年から8年間、中学部に異動となりましたが、それ以前から宿泊訓練は実施されていました。こちらも二泊三日の宿泊訓練を行っていました。中学部では、当時オープンした茨城県旭村にある、海浜自然の家(ホテルのような立派な建物です)、今市少年自然の家、日光方面でのキャンプを3年単位で実施していました。90年代後半になり、スクールバスの利用も思うように使うことができなくなり、ある年には、宇都宮市内の森林公園でテントを張ってのキャンプ、はたまた、盲学校の校庭にテントをはってのキャンプもしました。校庭から夜中にトイレに行くのが難しい人(私もその一人でしたが)は、体育館に寝袋を持ち込んで、二晩寝た忘れられない思い出があります。
 今回書いた行事の多くが今では諸事情によって断念せざるを得なくなったことは寂しいことです。茨城県の海浜自然の家は、建築に70億円かかったと聞いたことがありますが、泳いではいけない海、そして視覚障害者には分かりにくい建物でした。建てる時に障害者の意見を聴取するということは全くなされていなかったのだと思います。障害者用の部屋は幾つかありましたが、楕円形のロビーでは、一人で歩くと、グルグルと何度も歩いて迷ったことがありました。それも経験と言えば経験かも知れませんが、目で見てすばらしい建築物を考えての設計ではないかと、私には感じられました。それでも、これらの思い出は、今では懐かしく、苦しく辛いことが楽しい思い出となるから不思議です。
★メモ★
 遠足も、春と秋にありました。春は高等部全体での旅行で、遠くは東京ドーム、福島県阿武隈鍾乳洞、福島県三春のバラ園、会津の鶴ヶ城等にも行きました。秋は、クラス単位での旅行で、県内の観光地が多かったと思います。塩原木の葉化石園、逆さ杉、東洋一長いと言われた吊橋、那須りんどう湖、那須ハイランドパーク、千本松牧場、オルゴール美術館、足利学校などでした。現在は高等部では遠足はなくなりました。
 持久走大会ですが、駒生町の時は道路を走りましたが、福岡町に盲学校が移転してから、15年程度は当時、「年金休暇センター」と言っていましたが、そことの間の500メートルを行ったり来たりの持久走でした。高等部は2時間、歩いてもよいからできるだけ走ろうということでした。20キロ以上も走った人もいました。その後、道路を走るのは危険だからなどの理由もあって、今では校庭を、普通科生は60分、中学部生は40分走っています。理療科生は、授業時数の確保のために、学部全体で行う行事は少なくなりました。



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