第36話 結婚と家族




 今回は私の結婚についての出会いとその後について書きたいと思います。
 1978年10月9日から10日にかけて、日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)の青年部では、かつて盲学校のあった宇都宮市駒生町のホテル「コンセーレ」で、若者たちの修養会を開きました。当時青年部の部長が平山さん、私は副部長をしておりました。2年に一度程度でしたが参加者が少ないなりにも、青年部の集会は継続しておりました。その頃、盲伝の議長が鈴木彪平先生でしたので、是非宇都宮でやろうということになり、準備をして、その10月がやって来ました。10月9日(月)の午後から10日の体育の日にかけて行いました。平山さんはその集会のために、ボランティアを探すことで大変苦労をしていました。私もあちこちにお願いをしましたが、10日が体育の日で地域での運動会などで来られない人がかなりいました。
 さて集会の日ですが、栃木県内に住む青年たちをはじめ、関東地区を中心に20人程度は集まりました。講師は、盲伝の主事の吉田先生で、当時から問題になっていた、若者たちの非行問題、自殺問題等の原因や解決法について、心理学の立場からお話をしていただきました。また、トム・ペイトンさんにも協力していただき、アメリカの青年たちのことや教会の問題についてのお話をしていただきました。本来ならば鈴木先生にも出席していただくことになっていましたが、風邪をひいて熱を出して、残念ながら欠席となりました。そのボランティアの中に平山さんのパートナーの母教会の伝道師、橋本マキ子さんが手伝いに来ていました。私と会うのは初めてでした。彼女は、私の行っている四条町教会から僅か2キロ程度の教会、宇都宮福音教会で洗礼を受けて、神戸にある神学校で勉強し、私が教師になった年と同じ76年に宇都宮駅から二つ目の駅にある石橋町で開拓伝道を始めていました。それは平山さんからあらかじめ聞いていました。当初のプログラムでは、10日の朝は鈴木先生にメッセージをお願いしようと思っていたのですが、欠席となり、突然ではありましたが、橋本伝道師にお願いをしましたところ、快く引き受けていただきました。そのようなわけでプログラムも順調に進みました。その時、私は洗礼を受けてから初めて証をしました。証というのは、自分がどのようにしてクリスチャンになったかということを話すことです。というのは、それまでの私は証というとどことなく恥ずかしく、過去の触れたくない部分を語らなければならないといったような誤解をしていました。しかし、その集会の前に祈っておりましたら、神様から「証をせずしてどうして福音宣教ができるのか?」という導きをいただき、これまでの自分の歩みについて話をさせていただきました。ちょうどその時、一人のボランティアとして参加していた橋本さんがその証を聞いて、私との結婚を神様から示されました。後になって分かったことですが、以前から彼女は体に障害のある人との結婚について祈っていたというのですから、神様は実に不思議なことをなさる方だと思わずにはいられません。さらに後で聞いたことですが、その集会の最中に、ペイトンさんから、「あなたは盲人と結婚をする気持ちはありますか?」と、聞かれましたし、集会後、鈴木先生のお宅に報告を兼ねて数人がお見舞いにうかがったときにも、鈴木先生から「橋本さんは、盲人と結婚をする気持ちはありますか?」とも尋ねられたそうです。私は全く知りませんでした。
 それから10月13日(金曜日)、平山さんから私の家に電話があり、話したいことがあるので会ってほしいと言われました。私は何事かと思いつつも、翌日の土曜日の午後平山さんと会いました。すると、「これは内密な話だけど、橋本マキ子さんが、阿久津さんとの結婚を祈っているというのです。阿久津さんも祈って考えてください」と言われました。私は盲学校に勤めて3年目、27歳になっており、鈴木先生が結婚相手を一生懸命に考え、探してくださっていたことを聞いていましたが、平山さんからの話には驚きました。私は「とにかく自分も、御心かどうか祈ってみます」と応えました。それからの1週間私は真剣に考え祈り、そしてまた考えました。こうして原稿を書いていて思い出しました。その次の週、私は10月17日から21日に、三重県・和歌山県方面の修学旅行に出かけたのです。ですから、私は心の中で結婚のことばかりを考えていて、上の空の修学旅行だったのかも知れません。その時に、鳥羽のミキモト真珠島に行った時に、プレゼントを買いましたので、結論は出したのでした。私たちは性格も違うし、育った教会も違いますし、家庭環境も違います。それでも、イエス・キリストを信じるクリスチャンですから、例えどんなことがあっても、神様が守り導いてくださるという確信を与えられました。22日、日曜日に修学旅行から帰ってきてから平山さんに私の気持ちを伝えたところ、折り返しマキ子さんも、その気持ちでいるとのことが確認できました。それからの話は急展開となりました。お互いに毎日のように電話で話をしました。二人で鈴木先生のお宅にうかがって、ご挨拶をして仲人をお願いしました。マキ子さんには、我が家に来てもらったり、私も彼女の実家である、栃木県大田原にある作山のご両親に挨拶にうかがいました。我が家では、母親が涙を流して喜んでくれました。これまで、目の見えない息子のことを、母親として責任と心配を背負い込んでいたことが分かりましたし、父親も喜んでくれました。マキ子さんの実家では母親が心配していましたが、父親は、本人が決めたのだからとあっさり認めていただきました。それから話がトントン拍子に進み12月3日の日曜日には、彼女の教会で礼拝後、福音教会の牧師によって婚約式を行いました。そして、1979年の3月17日(土)の午後、四条町教会で結婚式を行いました。初めて出会ってから結婚までの半年という、スピード結婚でした。これは速すぎる結婚と思われましたが、神様のご計画であったことが直ぐに分かりました。私の恩師・鈴木先生が翌年の12月23日に心筋梗塞のために一瞬にして召されてしまいました。人には、1度や2度はチャンスがあると良く言われますが、あの時の決断が神様からの導きだったとしみじみと思い返しております。鈴木先生の生涯については、別項目で、改めて書きたいと思います。
 次に私たちの家庭に起こった神様のご計画についてです。
 1981年は、「国際障害者年」でしたが、この年、栃木YMCAの主催で、宇都宮にボブ・デヴォルトさんという方がきました。この人は、自分たち夫婦の間に子どもがいましたが、驚いたことに6人の子どもたち(しかも彼らは体に重い障害を持つ子どもたち)をベトナムやカンボジアから養子・養女として家庭に受け入れていました。デヴォルトさんは、私にこんなことを言いました。「日本では、自分たちに子どもがないと養子を迎えるようですが、これは大きな間違いです。自分たちに子どもがいないからもらうのではなくて、日本にも外国にも家庭を求めている子どもたち、幼いがゆえに両親を求めている子どもたちが沢山いるのです。どうしてそれらの子どもたちの叫びに耳を傾けないのでしょうか。」。私と妻とは、そのデヴォルトさんの言葉に強く心を揺り動かされました。そしてその時、デヴォルトさんに同行していた大阪にある、家庭養護促進協会のIさんのアドバイスを受けて、さっそく栃木県に里親としての登録を申請しました。この時にも、私たち夫婦は真剣に祈りました。私の目が見えないために許可されないかもしれないと思ったからです。しかし、その不安もやがて喜びへと変えられ、半年後、県知事から許可の連絡がきました。
 1982年(昭和57年)の3月24日、妻と私は大阪へ向かう新幹線に飛び乗りました。そして翌日、Iさんのお世話で、とある乳児院を訪れました。そこには0歳から3歳になる子どもたちが50人程いました。私たちが行くと、バラバラとかけよってきました。その一人を抱き上げると、「私も、僕も」と言わんばかりにそばによってきて離れません。これこそデヴォルトさんの言っていた「声なき声、叫び求める声」だと思いました。できることなら、そこにいる全部の子どもたちを家に連れて帰りたい衝動にかられました。
 それから2ヶ月後、私たち二人の間にKという2歳11ヶ月になる男の子が養子として与えられました。さらに2年後の1984年には、2歳8ヶ月の女の子も我が家に迎えいれることができました。さらに、88年からは、当時2歳9ヶ月になる女の子を里子として8年間共に暮らしました。今でも、何か悩みや問題があると「ここが私の実家のような気がする」と言って、度々泊まりに来ます。
 我が家にはもう一人の娘がいます。その女の子は、養護施設で高校までいましたが、ショートステイで、夏休みや冬休みに泊まりに来ていました。彼女の母親は、彼女が生まれて間もなく亡くなりました。そのようなこともあって、今年23歳になる娘ですが、「ここは私の実家だよね」と言って、電話をかけて来たり、2年前に結婚をしましたが、子供を連れて泊まりに来ます。その女の子は、何時か自分を阿久津のお父さんとお母さんが迎えに来てくれるとずっと願っていたと言っています。
 可愛そうなことをしたと思いますが、今から14年前に、妻の実家では、家を継ぐ兄が突然病に倒れて、4ヶ月後に亡くなりました。我が家では、98年から2008年までの10年間、悲嘆にくれる義母が来て、生活を共にしましたので、彼女の切なる祈りには答えられなかったのでした。しかし、今では実家になれて、孫が与えられて、我が家では血縁関係の家族はありませんが強い絆で結ばれた6人家族と考えております。33歳の息子、30歳、26歳、23歳の3人娘がいると思います。
 その他里親としては、シングルマザーが病気の時の入院等では、数人の子供たちを我が家で受け入れたこともあります。昨年の東日本大震災の結果、東北地方では何百人もの子供たちが、地震や津波のために親を亡くしました。東北地方の絆は強く、その多くは親戚に引き取られましたが、養護施設が受け入れている子どもたちもおります。
 栃木県内には、現在230人の里親がおり、養育里親として子供たちを受け入れています。最近特に思うことは、子供たちには何の責任もありません。親の身勝手による虐待が増加していることによる悲劇は心が痛みます。一人の子どもとして生まれて来た子ども!全国には3万人におよぶ子どもたちが養護施設で生活をしていると聞いております。養護施設の大切さはよく分かります。それと共にボブ・デボルトさんのことばの様に、家庭を求めている子どもたちの「声無き声」に耳を傾けてくれる人たちが増えることを強く願っています。
 今は、これまでの里親と共に、お盆や正月だけに受け入れてくれるショートステイの里親も県は求めています。また、里親を助けるための「レスパイト(里親が病気になった時の休息のためのヘルパー)」も、必要な時代となりました。冷蔵庫を開けることを知らない子どもたち、テレビのリモコンを自由に使えない子どもたちが、養護施設に沢山いることを知っていただければ感謝です。これが、我が家での人生旅日記です。
★メモ★
 1979年3月17日には、宇都宮市文化会館では、キャンディーズの「さよならコンサート」があり、道路は大渋滞、出席してくださった皆様にはご迷惑をおかけしました。昨年亡くなった、スーちゃんのことは忘れられません。「春一番」が、私の所でも吹いていました。
 我が親友、増田君は、私より1年前の78年に結婚をしました。お相手は東京世田谷区の鍼科学研究所で知り合った2年後輩の千鶴子さんでした。二人の出会いは、掃除当番が一緒になり、彼女が増田君のお気に入りとなった様です。チョコレートをしばしばプレゼントでした。その結婚式の司会を、クラスメイトの吉沢君と阿久津がさせていただき、良い思い出となりました。増田君は4年間キリスト教主義の施設で勉強をしていたのですが、信仰に対しては抵抗があったようです。千鶴子さんは、すでに洗礼を受けていました。そのことが、後で実を結ぶことについては、後日書きたいと思います。



我が人生旅日記  /  トップページへ