第37話 私と国際交流
今回はこれまでの私が関わりました国際交流についての幾つかの思い出を書きたいと思います。私は大きく区切ると3つの国際交流のチャンスを与えていただきました。第1番目は1979年にオープンした栃木YMCAの様々な国際交流プログラム、2番目は宇都宮市とニュージーランドとの姉妹都市との交流、そして3番目は、盲伝(日本盲人キリスト教伝道協議会)の国際交流部での関わりでした。
1979年に宇都宮市に栃木YMCAが誕生し、私は鈴木先生のお勧めをいただいて、最初から会員になりました。現在まで34年間会員になっております。そこで私は国際交流委員会に入り、多くの人たちとのすばらしい出会いと交流をさせていただいております。YMCAでは、栃木県西那須野町にほぼ同じ頃にできたアジア学院との交流を活発にして、国際交流を実施していました。特に、土曜日の夜に交流会を行い、その夜は希望者の家にホームステイをするチャンスがありました。我が家では、これは英語を使うチャンスとなり、さらに外国の文化や宗教について学ぶ良い時だと考えて申し込みました。この活動を始めてから20年ほどが最も盛んなホームステイの時代で、アジア・アフリカ等の国々から我が家に来ていただきました。思い出すままに書いてみますと、韓国・台湾・シンガポール・トラックトウ・タイ・インド・インドネシア・フィリピン・ミャンマー・スリランカ・ガーナ・シラリオーネ・マレーシア・カメルーン等がありました。ガーナの人は、我が家に来て、どうしても村に井戸が欲しいのだと強く頼みますので、妻が隣近所の皆様に協力をお願いして、5万円を集めて、アジア学院まで持って行きました。その方は涙を流して喜んでくださり、「村に井戸ができると本当に感謝です」と喜ばれたこともありました。インドやフィリピンからは数名の人たちが泊まりに来て、夜遅くまで話した楽しい思い出があります。その人たちの多くが日曜日には、四条町教会の礼拝に行きましたので、それもまた良い信仰の交わりとなりました。
次は、YMCAのプログラムの中から二つの思い出です。
1985年頃だったと思います。YMCAでは、アメリカから15人の高校生が来日して、1週間宇都宮で、日本の高校生と国際交流を行うことになりました。そこで、私にも協力して欲しいとのお誘いがあって、私は喜んで参加させていただきました。1週間の日程の中には、施設見学観光旅行などもありましたので、私が参加したのは栃木県茂木町の「山並荘」という建物での二泊三日の交流会でした。日本とアメリカからは同数の参加となり、スタッフが5名程度いました。テーマは、貧しさを学ぶ、途上国の実態を学ぶということで、幾つかのゲームを通して、そこからディスカッションに入りました。そのひとつを紹介しますと、くじを引いて、高校生は豊かな国と貧しい国に分けられます。そして食事を実態に合わせて分けるのです。最も豊かな国の一人は、一人で10人分の食事をもらいます。次に10人のグループには一人が一人分の食事を与えられ、最後の5人のグループには、食事が全くありませんでした。これが世界の実態なのだということなのでした。それを目の当たりにして、高校生たちは大変驚きました。単なる話だけでは実感がわかないのです。それからは、その食べ物について話し合いがはじまり、豊かな国が、貧しい国のグループに少しずつ分けてやるというゲームでした。高校生たちにとりまして、そして私にも大きな学びでした。その夜のことでした夏休み中でしたので、エアコンがありました。とても熱い夏でした。部屋割りは日米同数で分けたのですが、朝になって、アメリカと日本の高校生からクレームが出ました。日本の高校生は、エアコンが効きすぎるので、夜中にエアコンのスイッチを切りました。するとアメリカの高校生が起き出して、「暑い、暑い」と言って、スイッチを入れます。そしてしばらくすると、日本の高校生が寒いと言ってスイッチを切るようなことが一晩で3回も繰り返されたのです。これは文化の違いなのです。現在でも、日本では朝までエアコンを入れない人がかなりいるかと思いますが、アメリカでは、朝までエアコンを入れるのが当然と考えているようです。結局、二日目は止む無く国別の部屋で宿泊しました。このように国際交流と言いますが、習慣の違いから共に生きることの難しさをお互いに学びあうことができた良い経験でした。
次に1987年のフィリピンワークキャンプの思い出です。YMCAでは、86年から、山田総主事の提案によって、フィリピンのタラという村に行ってのワークキャンプが始まりました。そして87年に、山田さんから「阿久津さんも是非一度行ってきてください。」とのお誘いがありました。ワークキャンプでは私には出番がないのでは、と言いましたところ、通訳をすればいいのですと言われて、多少の不安はありましたが、行く決心をしました。タラという所は、マニラから約50キロの所にあるハンセン病の患者と共に暮らす村です。そこに行くという提案をしたところ、教育委員会からは、高校生がそんな所に行くのは危険極まりないとの猛反対がありました。山田さんご自身タラに長年滞在していましたので、一つひとつの心配や偏見に対して説明をして、やっと了解を取り付けました。86年は、高校生は少なかったと思いますが87年に私が参加した時には大半が高校生・大学生でした。夏休みを利用しての1週間でした。旅行中、私のパートナーとなってガイドをしてくれたのは、当時、宇都宮大学農学部農業経済学科の学生・添田さんでした。彼は群馬県で教師になっていますが、今でもメールなどで交流が続いています。成田からマニラまでは飛行機で2時間程度だったと思います。時差は1時間なので、アメリカに行く程のギャップは感じませんでした。マニラ空港を出ると、何とも言えない臭いが私を襲いました。排気ガスの臭い、ゴミの臭い、その他私には分かりませんが、ビックリしてしまいました。これが発展途上国なのだというのが第一印象でした。その夜は、マニラからタラまではマイクロバスで揺られて約70分、夜遅く私たちの宿泊施設につきました。そこは、カトリックの施設でしたが、生活するのには何ら不便はありませんでした。エアコンは無く、天井から古い扇風機が生ぬるい空気を動かしていたのが忘れられません。1週間の滞在の主な内容は、タラ村にある、ホーリー・ローサリー・カレッジの学生たちとの交流を通しての話し合い、それからタラ村にある、ハンセン病患者さんたちとの交流、具体的には病院訪問、村でのホームステイ、青年たちと共に豚小屋を作ると言うことでした。どうして豚小屋作りのプロジェクトになったかと言いますと、経済的援助ではなくて、彼らが経済的に自立するように豚小屋を立て、子豚を飼育してそれを売って収益を上げるお手伝いをしようという目的でした。夜は、タラの学生たちと話し合いやパーティー等で楽しい一時もありました。私はホームステイはしませんでしたが、体験をした人の話を聞きますと、トイレのない家、ベッドが二つしかない家、なので、「私は床に寝るから、あなたが私のベッドを使って」という、とても心温まる、あるいは胸が痛くなる話もありました。私のフィリピンでのパートナーの家も貧しい学生の家でした。「一度あなたの家に行きたいのだけど?」と言いましたら、「僕の家は貧しくてとても迎えられないから叔父さんの家に来てください。」と、言われて、行ってみました。土間はコンクリートで、テーブルが置いてありました。昔の我が家と同じです。そこに家族が沢山集まって、英語では無くて、タガラグ語という、現地の言葉を使っていました。タガラグ語はかつてスペインの植民地の影響もあって、スペイン語と類似している言葉を多く耳にしました。日本を、ヤホン・ヤパン等と言っていました。生活は貧しいことはよく分かりましたが、彼らの絆は本当に強いと感じましたし、日本の人たちが驚いたのは、彼らの目がいきいきと輝き、とても明るいのです。豊かさが幸せとは言えないことをみんな教えられた時でした。私のパートナーは、「これが啓司にプレゼントできるものです。」と言ってくれたものがありました。彼が高校の時に、バスケットボールで優勝をしたメダルだったのです。私は遠慮をしようかと思ったのですが、それをしたら、彼に対して本当に失礼なことになるのだ、彼からの心からのプレゼントなのだ!と、思って、喜んで受け取りました。彼からのプレゼント、それは、彼が最も大切にしていたものを、私にくれた物でした。それは、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」のようでした。次にタラ村にある、ハンセン病患者の病院へ行き、一人ひとりと握手をして英語で話をしました。多くの人たちが失明をしており、私と話をすることをとても喜んでくれました。私も嬉しかったです。その何人かから、私はラジオが欲しい、タイプライターが欲しい…等と言われました。その時は、日本からは送ることは難しいのです、と話しましたが、事前での研修では、物を贈ることはしないという話し合いをしていました。百人の中の一人が何かを貰えば、その人だけがよい思いをすることになります。そうなると、援助とはもらうことと誤解をされる危険性があるということを学び合いました。タラ村は、ハンセン病になっている患者さんとその家族を中心にした村でした。日本では明治時代から、ハンセン病にかかると、離島や山奥に隔離しての差別の歴史があります。10年程前に、伝染する危険性は全くないということで、法律が改正されましたが、1980年頃までは、差別に苦しむ人たちの声を私は直接患者さんたちから、録音テープで聞くことができました。妻が、神戸にいた時に、長嶋愛生園に行って、交流をしていました。そして、私との結婚の話を聞いて、愛生園の人たちから、祝福のボイスレターをいただきました。さて、このタラ村との交流は、その後もYMCAの国際交流プログラムとして続されています。宇都宮に彼らが来た時には、必ずと言ってよいくらい、盲学校の生徒たちと、主に英語の時間に交流の時を持ちました。佐藤佳美さんは、専攻科の時に、タラ村に行って来ました。
2番目の国際交流は、ニュージーランドのマヌカウ市との交流です。1980年代、宇都宮市は、ニュージーランド・アメリカ・中国・フランスの都市と姉妹都市の関係を結んでの交流が活発に行われていました。我が家は、ニュージーランド・マヌカウの人を3人、それぞれ1週間のホームステイをしました。その中の思い出を書きたいと思います。
1.スージーさんのこと。
スージーさんは、オークランドに住んでいました。我が家にホームステイをした時は看護師をしていました。60代になっていたと思います。ホームステイをしているフリーの日に、「何をしたいですか?」と聞きましたら、パチンコをやりたいと言うのです。私は、パチンコの経験はありませんでしたが、オリオン通りの近くにあるパチンコ店に行きました。千円をパチンコ玉に変えて始めまして、数分たった頃、チューリップが開いた様でチンジャラジャラと音がなり続きました。スージーさん、ワォー!と叫んで大喜び!さらにしばらくやっていましたが、それからはチューリップが開かないので引き上げることにして、残された球を料金にしましたところ、7500円がスージーさんの手元に届きました。彼女とは本当に楽しい1週間の思い出をいただきました。彼女が我が家を離れて部屋を掃除しましたら、枕の下に1万円札が置いてありました。ビックリして皆が宿泊しているホテルに電話をしましたら、「楽しい思い出をありがとう。マキ子への感謝の気持ちよ」という言葉でした。スージーさんとは、それからもクリスマスカードの交換や、国際電話での話を続けました。できれば、私たちもいつの日かニュージーランドに行きたいなあ!、これが我が家での口癖でした。10年程前の朝、我が家の電話のベルがなりました。受話器からは英語の声、スージーさんの娘さんから、「今朝、母が天国に旅立ちました。母は、自分が天国に行ったら、啓司に電話をするようにと言っていましたよ」との伝言でした。国際交流って、こんなにすてきなことなのです。スージーさんありがとう。私の胸は熱くなりました。「いつの日か再会しましょう!」との気持ちを忘れられません。
2.フェイ・トレソーンさんのこと。
これは、マヌカウ市の障害者と宇都宮市の障害者団体との交流の思い出です。1990年でした。私の家には、フェイさんという全盲の女性がホームステイをしました。宇都宮視覚障害者福祉協会との交流は、駒生町にある寿司屋で行いました。フェイさんたちは、生鮨にはあまりなれていませんでしたが、参加者の中にはビールや日本酒を、美味しいと言って喜んでくれる人もいました。また、トイレットペーパーを引っ張ると音楽が流れる装置が当時売り出されており、ニュージーランドのみなさんビックリ、大喜びでした。日本のマッサージにも very niceの連発でした。私は、フェイさんには何でも経験をしてもらおうと思っていました。丁度11月3日の日に、弟の家では、息子の七五三のお祝いがありましたので、フェイさんにも参加してもらいました。彼女も大喜びで、お開きには、フェイさんの英語での万歳三唱をしていただきました。去年、フェイさんのところに電話をしましたら、82歳で元気でした。日本のクリスマスシーズンは、あちらでは真夏のクリスマスです。時差は確かニュージーランドでは4時間進んでいるので、ちょっとでも遅くなるとマヌカウでは、真夜中になってしまいますので時間のチェックは不可欠です。
3番目は盲伝(日本盲人キリスト教伝道協議会)とバングラデシュの女子盲学校との交流です。1989年にバングラデシュのバプテスト女子盲学校の校長、サマダールさんが研修のために来日して、盲伝でお世話をしました。この女子盲学校はイギリスのキリスト教の女性宣教師が創設して、イギリスとドイツの支援で経営している盲学校です。サマダール校長は我が家にホームステイして、私は親しくなりました。バングラデシュは世界でも最も貧しい国の一つです。人口は1億4千万人ほどですが、イスラム教徒が主流で、キリスト教は少数派です。バングラデシュには、視覚障害者が百万人以上もいると言われていますが、女子生徒のための盲学校は、サマダールさんが校長をしている学校がたった一つです。私たち盲伝は、1990年頃から、何とかして、そのような差別に苦しむ盲学校を助けよう、卒業生の自立を支援しようとみんなで献金をしました。そして、1995年に、首都ダッカの北70キロにあるパキチャラという村に、土地を購入し、建物を建て、パキチャラ・リハビリテーション・センターという施設を盲伝の献金で運営するにいたりました。私はバングラデシュには一度も行ったことはありませんが、メールや電話で、サマダール校長と連絡を取り合い、2001年に、盲伝創立50周年に日本に招待しました。その時、サマダール校長はノミタさんという全盲の女性教師と一緒に来日し、その時は、宇都宮に来て、四条町教会でも話をしていただきました。そのような経験をしましたが、最近ではバングラデシュの盲学校も統合教育の流れが押し寄せて来ているようです。それが視覚障害者のためになればよいのですが、必ずしもそうでないことが大変心配です。
以上、これまでの私の国際交流について簡単に書きましたが、そのことを通して国際問題を考えると、最も親しいアメリカ・韓国・中国とも、沖縄基地問題や領土問題があって、首相がクルクルと変わる政権では、頼りなく、信用されないことだけはハッキリしていると思います。相手の立場を理解しつつ、自分たちの主義・主張は外交問題ではハッキリさせないと、あのエアコン問題ではありませんが、誤解が、次の誤解を生むのではないかと懸念をしております。先日の沖縄での女性暴行事件をボイス・オブ・アメリカで取り上げていたので、アメリカのジャーナリズムには、良心があると少しばかりホッとしております。
一つ書き加えなければならないことがあります。ニュージーランドのマヌカウ市長が来られてのパーティーの席で、市長が「このパーティーで私にとりまして最も大切な友人がいます。それは体に障害のある宇都宮の皆様です」とのスピーチがありました。通訳していた人には、その意味が理解できなかったのかと思いますが、通訳からスッポリ抜けていました。このように、どんなに優秀な通訳師であっても、その言葉の中にある心を理解できないと通訳できないことを、私自身も学んでおります。
アメリカと日本の葬式について、日本では、亡くなった人が、葬祭から火葬場に向かう時は、目礼や黙祷でお別れをします。アメリカでは拍手をして送る場面を見ます。「あなたは人生を立派に生き抜きました」との賞讃の意味かと思いますが、日本では文化の違いで、拍手で送るのは難しいかと思いますが、私は心で拍手をしたいと、いつも思っています。