第38話 新たなチャレンジ!




 今回はこれまでの人生の中で忘れられない年、1990年から91年にかけての経験と思い出です。
1.1990年は元号も変わって、平成2年となっていました。その年は世界が大変な年となりました。90年の夏のこと、8月2日、サダム・フセイン大統領の命令によって、イラク軍があっという間にクウェートを侵略し、8日には完全に支配下に治めてしまいました。日本では、自衛隊派遣について、賛否両論、右往左往でした。
 90年の10月、私は音声対応のパソコンを63万円で買いました。盲学校では、その2年前に音声で漢字・かな混じり文のパソコンが入り、私は驚きました。これは何とすごいことかとビックリ仰天でした。そして、私はついに自分のパソコンを買う決心をしたのでした。パソコンが30万円、そして音声対応の装置が257,500円、その他のシステム、キャスター付きパソコンデスクなど、全部で63万円でした。とても高いと思いましたが、どんなに誤字が多くても、自分の手で漢字・かな混じり文を書くことができるというのは、私にとりましては、目の見える人が鉛筆やボールペンで書いているのと同じように思えるほどの感動の一瞬でした。視覚障害者にとりましては、皆同様の感動を覚えたのではないかと思います。それからは、原稿を書くことが苦労ではなくなりました。今では何ということなく使っている、音声パソコンですが、当時は視覚障害者にとっては革命的なものでした。点字タイプライターと同じ様な方法で、漢字を書くことができ、英語も音声で書き、しかも発音はいずれにしても読み上げてもらえるようになりました。それまでは、前にも書きましたが、英文タイプや口頭で言って書いてもらっての作業でした。1980年代に入って拡大コピー機が導入されました。そのことによって、弱視者への対応がより可能となりましたが、パソコンで視覚障害者が普通文字を書くことができるとは信じられないことでした。その時から、フロッピーディスクを使って、試験問題を書き、職場の同僚に校正をしてもらえるようになりました。それ以前は、出張のレポート・研究発表のレポート等、すべてを家族または職場の同僚にお願いして書いてもらっていました。
 1998年頃からインターネットや、メールでのやり取りが可能となりました。私の所属している、四条町教会の委員会の責任者となった時には、総会のための資料を作成することができるようになり、教会の90周年記念誌の編集委員も担当することができたのも、この音声パソコンが手に入ったことによるものでした。あれから早22年、パソコンも日進月歩と言いますが、最近買ったウインドーズ7では、6万円を切ってパソコンを買うことができ、音声システムを会わせても12万円でした。今では、アメリカやイギリスのラジオ放送をインターネットで実に良い音質で楽しむこともできるようになりました。とは言え、漢字は、私にとってはもう一つの外国語のようなものであることには違いありません。間違いないと思っても、必ず誤字があります。晴眼者の校正をしていただかなけれぱなりませんが、書くことの楽しみと喜び、夢が無限に広がっていきます。このパソコンがなければ、私の人生旅日記も書くことができなかったことでしょう。
 ところで、その1990年の暮れの12月30日(日)、私と妻は、小学5年生の息子と3人で栃木県今市市にある今市福音キリスト教会の礼拝に出席していました。その日は、我が親友・増田薫君が、関根辰夫牧師より洗礼を受ける記念すべき日でありました。パートナーの千鶴子さんも長年、その日を祈っていたと思いますが、71年に四条町教会で洗礼を受けた私の19年間の祈りが聞かれた時でもありました。一人の人が新たなる信仰生活を始めるというのにはそれほど時間がかからない時もあれば、このように長年の祈りが聞かれる時のあることを知りました。祈りには、すぐに聞かれる祈り、時間が掛っての聞かれる祈り、そして聞かれない祈りもあると聞いておりますが、増田君の洗礼を受けることについては、私が密かに祈り続けていた祈りでもありました。また、増田君が洗礼を受けることについては、我が家では家庭礼拝の中で祈っていたこともあり、息子が「増田さんが洗礼を受けるためにお祈りしています」と、たびたび言っていたことも、彼の心には強く残っていた様でした。その日の昼食は、教会の近くの料理店で、増田夫妻と共に食事をしました。その時に、私はかねてから気にしていたことについて、彼に相談をしました。「最近、自分の足が変なのだよ。良くつまずいて転ぶのだけれども、捻挫のせいかな?」との、私の言葉に、増田君は、私の足の筋肉に触れて、「確かに細くなっているなあ、一度病院に行ったほうがいいよ」とのアドバイスをしてくれました。これは私にとって神様の導きとしか思えない時でした。と同時に、言い知れぬ不安が私に襲い掛かって来ました。と言いますのは、丁度その頃、クリスチャン教師の大場さんという人が、筋ジストロフィーになりながらも必死に生きていたニュースを聞いていたので、自分も同様の病気になったのではないかという心配に支配されてしまったのでした。年が明けて、地元の国立病院に行きましたが、直ぐに答えが出るわけではなくて、とりあえず検査のために入院をするようにと言われました。そして待ちかねたその日がやって来ました。1991年の1月19日(土曜日)の朝、私は妻に付き添われて国立病院に入院をしました。その日の朝は、アメリカ軍がイラクに空爆をしかけた朝でした。忘れられない一瞬でした。その日から1月31日まで私は入院をしました。整形外科でしたが、主に点滴を打ちながら、リハビリ科に通ったり、当時はあまり備えていないと言われていたMRIの検査のために、どういうわけか、国立病院にはその検査機器がなくて、個人病院でMRIの検査や、同じく別の病院に筋電図の検査に行ったりしました。整形外科の先生はとても親切でした。結論から書きますと、私の病名は入院中には分かりませんでした。同系列の栃木済生会の神経内科の今井先生のもとに通い続け、私の病名が分かったのは、3月10日頃でした。今井先生におそるおそる病名を聞きましたところ、「阿久津さんの病気は、珍しい病気で、シャルコ・マリ・トース病と言います。フランスの3人の女医さんの名前から来ています」と言われました。致命的ではないけれど、これといった治療法も今のところはありません。ビタミンEとビタミンB12の薬を飲んで、血液の循環を良くしてください。このような診断がくだり、私は普段はかかりつけの病院から薬をもらい、半年に一度定期検診を受けることになりました。運動をすればよいのかと思って、家庭内で自転車をこいだりしましたが、私の場合は、運動をし過ぎてはいけない、かと言って、全く動かさないとそれもよくないというのです。あまり疲れないように適度に体を動かすようにと言われました。
 あれから数えて21年が過ぎました。膝から下の筋肉が衰え、足関節が垂れ下がった状態なので、つま先が上がらずに転ぶことがよくありましたが、これまでの21年間、神様に守られて退職を迎えることができたことが、何よりも感謝なことであり、喜びに耐えないことであります。私が入院をしたのは、これまでにその一度だけでしたが、その2週間で多くのことを学びました。私の入院した部屋は二人部屋でした。同室の相手はKさんと言いますが、軽トラックを運転中、出会い頭に乗用車と衝突をしてしまい、首から下が全く動かない状態でした。私より1週間速く入院しており、最も辛い時だったと思います。鏡を使いながらの食事でした。排泄は、看護師さんに夜はしてもらっていましたが、日中は、奥様が鬼怒川からバスで通っていました。イライラと怒りのKさんの呟きを、奥様と私が聞き役でした。私は1日だけ脊髄造影のために麻酔をしての検査はありましたが、その他は、元気に生活していました。Kさんは、とにかくイライラの連続です。そんなある時、看護学生がKさんのところに実習生として3日間付きました。そして、彼女は明るく接していましたが、便秘のKさんのために、手袋をして、彼の肛門に指先を入れて便が出るようにしているではありませんか。便秘ならば下剤を服用すれば良いのではないかと、思っていました。何も知らない私は、看護師さんの仕事の一端を知って驚いてしまいました。そういえば、看護とは、きつい、汚い、暗い、などと聞いたことがありました。正に、看護師さんの仕事とは、人の生命を守ることなのだと実感をしました。私が退院して1月程してから国立病院へKさんを尋ねて行きましたら、大手術も無事成功して、元気になってリハビリに励んでいました。それ以後Kさんとは連絡をとっておりません。私にとりましては辛くて長い入院期間ではありましたが、とても大切なことを学ぶ良い期間となりました。看護師さんとは、勤務時間の体系とか、勤務内容についても教えてもらうことができました。弱さをもつ人、悲しみの中にある人と共に歩む人とは、正に看護師さんたちと思いますし、今でも心から尊敬しております。
2.同窓会の思い出(2012年同窓会機関誌「とちのみ」からの転載です。)
 私は同窓会の事務局を1976年から15年程担当しましたので、その時の思い出の一端を書かせていただきます。最初は、蓼沼先生や賀川先生のお手伝いをさせていただきながら、先輩方と様々な出会いがありました。
 1990年、同窓会長は山本弘様でした。当時同窓会では、盲学校校長を退職された岡村先生がご自宅を提供して開所した宇都宮ライとセンターを支援していましたが、その年に山本会長と事務局で、ライトセンターをさらに発展・充実させようという目的で、ボニージャックスの「チャリティーコンサート」を計画しました。盲学校の事務局は兼目先生と私の二人でした。早速、同窓会長から宇都宮視覚障害者福祉協会、栃木県視覚障害児(者)親の会にも協力をお願いして、実行委員会を立ち上げました。そして、何回会議を開いたか、忘れる程頻繁に打ち合わせをしました。ボニージャックスの事務所が快くチャリティーコンサートに協力してくださったことが何よりもの感謝でした。
 さて、ここで最も苦労をしたのがプログラムの広告を取ることでした。実行委員それぞれが関わりのある店や日頃お世話になっている病院の先生に広告をもらいに行くのです。私も妻と二人で近所のレストラン、スーパー、ホテル、そして病院の先生にお願いをして回りました。一口5千円から最高は2万円までありました。私は5千円と一万円の広告をお願いして、トータルで20万円をいただくことができました。私が駒生町のコマバスーパー(今はたいらや)に広告をお願いに行った時、店長さんは「うちはそういうのはお断りです」と言われました。しかし、その店長さんは私どもの関係のある教会員だったので、趣旨を丁寧に説明しましたところ、一万円の広告を協力していただくことができました。このようなことは、すべての実行委員が汗を流しながら走り回って経験したと思います。その努力が実を結び、広告代でボニージャックスの出演料を準備することができました。
 最後の大変な作業はプログラムへの広告の配置でした。その頃、盲学校に勤務していた菊島先生と北條先生のお二人が快く積極的に協力してくださり、土曜日の午後遅くまで学校に残ってその作業をしてくださったのには、涙が出るほど嬉しかったです。自宅に帰ると、チケットの販売についてのクレームや心配事の電話が連日のようにかかって来ました。例をあげますと、30枚のチケットを預かったけど1枚2千円では売れません。余ったらどうしますか?とか、夫婦喧嘩が始まりましたなど、みなさん大変なご苦労がありました。元来神経の細い私のこと、不整脈が出てしまいましたが、そこを兼目先生に励まされて立ち直ったこともありました。今から22年前のことですから、私が38歳の時のことでした。そして翌1991年8月、1037人収容の栃木県教育会館は超満員でした。立見席も出る程で、私は一番後ろの立ち見席で聴いていました。その時の心は達成感と安心感、喜びと感謝であふれていました。
 あれから数えて21年になります。250万円余の収益金が宇都宮ライトセンターに寄付されました。その後、1997年だったと思いますが、同窓生のエレキバンド「ホワイトウイングス」が宇都宮視覚障害者福祉協会と親の会の共催で、宇都宮総合福祉センター10階でチャリティーコンサートを開きました。入場料は無料でしたが、参加者からの寄付をいただいて、15万円をライトセンターに捧げることができたのも良い思い出となりました。その後、とちぎライトセンター後援会長・谷議員のご尽力によって、第2回ボニ―ジャックスチャリティーコンサートも開かれました。
 今回は、私の関係することを書かせていただきましたが、この他にも数知れないご協力とご支援があって、今日の社会福祉法人とちぎライトセンターがあるのだと思います。同窓会が狼煙を上げて、とちぎライトセンター開設の一助を担ったことは大きな働きだったと思います。
★メモ★
 盲学校の中でパソコンの開拓者は、小池上先生でした。先生は覚えの悪い私に、忍耐強く教えてくださいました。盲学校にいなかったら、パソコンに近づくのにも10年遅れていたかも知れませんでした。小池上先生からの一言。音声システムの一つ、高知システムが開発したAOKには私の大学時代の同級生の有光君がかかわっています。AOKは有光のAと高地システムの社長の大田さん、有光さんの同僚の北川さんの頭文字を取ったものです。
 栃木ライトセンターは、視覚障害者の生活自立を目標にした就労と生活支援のセンターです。
 1994年には、宇都宮市で、日本盲人会連合全国大会があり、この時には、テレホンカードを販売しての運営費の資金作りに、関係者で売って歩きました。営業の難しさを教えていただきました。テレホンカードはこんにちでは、もう買ってもらえなくなりました。各団体では、資金作りに困っている時代です。



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