第39話 退職




 今回は、私が中学部に異動した1992年から99年までの思い出と、2000年から退職するまでの12年間で経験した幾つかの思い出を書きたいと思います。
1.鹿沼市立南摩中学校との交流教育について
 1992年4月に私は中学部に異動し2000年3月まで勤務しました。前に書きましたが、92年にはアメリカから帰国した生徒が一人来ていました。その生徒とは1対1の授業で、ほとんど英語を話しての授業でした。最初の2年間、私は校長先生からの任命によって中学部の主事をいたしました。慣れないために、その当時のみなさんには大変お世話になりました。その頃は、文部省からの通達もあって、特別支援学校と一般校との交流が奨励されていました。中学部では、盲学校の近くにある宇都宮市立城山中学校と運動会や弁論大会等の学校行事による交流をしておりました。他方、隣の鹿沼市にある南摩中学校とも交流教育が本格的に行われるようになりました。
 1992年の4月、南摩中の校長先生が盲学校に来られて、これからの交流のあり方について意見を聞かせて欲しいと言われました。鹿沼市としても、交流教育が研究テーマになっていたのも一つの理由になっていたかと思います。私たちは話し合いの結果、通常学級の生徒たちには、一般中学校での授業を共に経験させたいとのことから、2時間目から6時間目の授業を、年3日間、各学期単位で行うことにしました。私の担当の英語の授業も、南摩中学校の先生と連絡を取り合ってのTEAM TEACHINGを行うことになりました。これは私にとりましてかけがえの無い経験となりました。南摩中学校は3学年6クラスで、生徒全員で200人程度の小規模な学校のために、とても温かい学校の雰囲気でした。交流授業を始める前に、オリエンテーションとして、視覚障害者についての生活や接し方の説明をしました。さて英語の授業ですが、私は南摩中学校の女性の先生と役割を決めての授業展開をしました。南摩中学校の生徒たちは、最初、私が視覚障害者であることにとてもビックリした様子でしたが、2回目からは慣れてきて、生徒の傍に行くと、質問が出るようになりました。また、中学校の中を一人で歩いていると、「先生手引きをしますか?」と、声をかけてくる生徒が増えてきました。授業では、南摩中学校と盲学校で使う教科書はNew Horizon で最適な教材でした。南摩中学校の英語の先生は色々と配慮をしてくださり、私ができるだけイニシャティブをとっての授業にしてくださり、本当に楽しく感謝な交流授業でした。
 3年目かと思いますが、鹿沼市の教育委員からの指定による研究授業となり、英語がその一つに決まりました。内容は「電話で英語を話そう」というものでした。南摩中の先生と私のグループに分かれて、生徒たちが電話での英語会話をするというデモンストレーションでした。授業を見学に来た人たちは、鹿沼市内の先生たちや教育委員会の先生たちで、彼らは私が視覚障害者であったことが、やはり驚きのようでした。「目の見えない先生が英語を教えられるんだ」という、ささやく声がそこかしこから聞こえて来ました。よい準備をすればよい結果が生まれます。交流教育研究大会の後、南摩中学校と盲学校中学部の教師で、夜反省会、そして食事会をして、私たち教職員も心からの交流の時を持つことができて感謝しました。どうしてこのような成果をみることができたかと言いますと、南摩中学校の先生たちが一丸となって協力してくださったことは言うまでもありませんが、その背景には、南摩中学校の先生の中に、実は宇都宮大学時代に点訳グループで活躍していた人がいたからだと思います。盲学校に対して深い理解と熱心な協力があったからに他なりません。南摩中学校との授業による交流は1997年度頃まで継続しましたが、両校とも教員の異動や、生徒の実態の変化によって、次第に部分交流となっていきました。1994年頃と思いますが、宇都宮駅で私が一人で歩いていた時に、「先生こんにちは南摩中学校の○○です」と、3人の男子生徒から声をかけられました。本当に嬉しい経験でした。また、5年前には盲学校と交流をしていた時に南摩中学校の生徒だった女性が、盲学校の事務員として3年間勤務するという、うれしい再会もありました。
 ところで、ここ10年間で、一般中学校で教師になる視覚障害者も増えて来ました。栃木県でも、10年前に、一人の視覚障害者が音楽の教師として、宇都宮市の中学校で教師になって活躍しております。現在は、視覚障害者の教師には、アシスタントの教師が配置されるというとても良い制度があります。私も30才若かったらチャレンジしていたかも知れません。しかし、先に書きましたように、南摩中学校での交流教育を通して私には、楽しく有益な経験と自信が与えられたことは感謝なことでした。
2.盲学校図書館でのボランティアとの交流
 1995年から退職するまでの17年間、私は図書館の主任をいたしました。この間、4人の司書の方々と楽しく有意義な仕事をさせていただきました。ここでは、ボランティアとの出会いと交流について書くことにいたします。
 私は95年から、図書館のボランティア係と主任をしておりました。その年に文部省から各盲学校にパソコン4台が送られてきて、点訳ボランティアの養成と、点字の教材作りをするようにとの通達がありました。それは現在も継続されている「視覚障害教育情報ネットワーク」というもので、全国の盲学校の点訳データ等を国立総合教育センターのホストコンピューターにアップロードして、共有財産とする方法でした。したがって、私は17年間、地元のボランティアグループの皆様に点訳・音訳で大変お世話になりました。以前書きましたように、1964年に、盲学校の校長の依頼を受けて誕生した点訳グループ「とちぎきつつき会」の皆様をはじめ、英語点訳グループの皆様には、生徒たちが受験する旺文社の模擬試験の問題を1週間で点訳していただいたり、図書館にある目録を点訳していただきました。目録の完成についてですが、それまでもなかった訳ではありませんでしたが、理療科用の点字図書は、読み方が難しくて目録から漏れていたのでした。その作業は、ボランティアのOさんが盲学校に来てくださり、しらみつぶしに、古い点字の本から寄贈された点字図書まで念入りに調べての点字目録をつくるというものです。それはそれは大変なご協力をいただいたのでした。また同年より栃木盲学校では、点訳ボランティアの協力をいただいて、私ともう一人の教員が、点訳ボランティアに点訳をお願いした本の対面校正を行なうということになりました。それは私にとっても読書ということになりました。私の場合は、最初の頃は、盲学校にいる生徒のために、英語検定試験の全問題集を、4級から1級まで点訳していただき、対面校正をして、アップロードしたり、何冊かの英語の作品、多くは私が興味をもっている英語の文学作品でしたが、点訳をしていただき対面校正をしたものでした。これは私にとってよい勉強になり、一石二鳥でした。そうして10年前からは、ジョン・スタインベックの「エデンの東」、全40巻を2年間かけて点訳していただき、校正をしました。授業の合間を利用しての対面校正なので、点字図書館のように、数多くの本を仕上げることは難しいのですが、栃木県立盲学校は、作品完成ランキングベストスリーにあると思います。こうしてこれまでの17年間で、約300タイトルをホストコンピューターに登録できました。
 もう一人の教師は、理療科の教師ですが、横浜市にあるボランティアグループ「バネの会」の協力を得て、「内科診断学」という、長大作を点訳していただきました。これは、全100巻にもなる本ですが、理療科の先生の総力を上げての校正でした。この時のこぼれ話は、バネの会のボランティアの皆様が、正しい読み方、また本の中で誤字と思われる個所をチェックして、発行元に度々連絡をしましたところ、一つ一つの問い合わせには答えられないから、「勝手にどうぞ!」というような返事が来たそうです。これほど私たちの点訳校正は真剣になされていたということです。私はここから、完全な本はありえないのではないか、ということを学びました。また、3年前には、国家試験の学習のために、「国試黒本」という本を、点訳ボランティアグループ「にじ」の協力をいただいての点訳、続いて、栃木県視聴覚障害情報センターのボランティアの協力をいただいてのデイジーで録音をすることができました。録音では、40時間になる大作です。医学の専門書なので、どんなにご苦労があったかと思うと感謝に絶えません。
 ところで、私が自ら読んだ本で、特にここで紹介したいのは、山岡宗八著「徳川家康」(全105巻)です。この本は、盲学校の先輩が、日本点字図書館から借りて、それを1ページずつ写し書き(点写と言いますが)をしていただいた貴重な本を読むことができました。点写をするのに10年近くかかったと聞いています。本校になければ読むチャンスはなかったと思います。
 点訳・音訳ボランティアの皆様との交流は公私共々現在も大変お世話になっております。また1995年には、Sさんという点訳ボランティアが盲学校の図書館に週1回、午後、来てくださり、最初は点訳、その後は図書館ボランティアとして、本の製本等、あらゆることを手伝っていただきました。さらに、私が研究レポート等で困っていることを知って、「いいですよ、校正のお手伝いをしましょう」といとも簡単に手伝いを引き受けていただいたことがあり、本当に感謝な出会いでありました。このようなサポートをしていただいて、私は、1998年に島根県で開かれた全国盲学校教育研究大会の英語科部会で、研究発表をすることができました。パソコンの発達によって、視覚障害者にはデータを読んだり書いたりすることができるようになりましたが、漢字の校正やレイアウト等は、どうしても晴眼者のサポートが必要だと思います。Sさんは、私が退職するまでの17年間、盲学校から40キロ離れている自宅からボランティアとして通い続けてくださいました。神様は、本当に必要な時に、必要な方を送ってくださるのだと痛感しております。また、妻と娘と私は、Sさんに送迎をしていただき、Sさんのお宅で楽しいバーベキューを楽しんだ夏もありました。
3.T君との出会い
 2009年、盲学校高等部にT君が入学して来ました。彼は中学生の時に病気のために徐々に視力を失い、高等部に入学した時には残存視力はありましたが、活字での学習はできない状態でした。彼が1年の時、私は副担任となり、彼に点字を最初から教えることになりました。長年の教員生活で、それまでにも小学生・中学生には点字を教える経験は数人ありましたが、高等部での点字指導はありませんでした。従って、私にとりましては、彼が3年生になるまでに点字をマスターさせることが長期課題となり、それは一つのチャレンジでした。
 まず最初の私の課題は、彼が1年生のときに、点字の読み書きをある程度まで学習できるようにすることです。こうして、英語4時間、国語2時間、自立活動1時間の週7時間での点字学習が始まりました。彼にとっては、やらなければならないことと分かりつつも、意味不明のボツボツに触れるのは憂鬱極まりない時間であったと思います。まずは、点字の成り立ちを学習するために、点字タイプライターを使って学習しました。点字で単語や文を書けるようになってから、少しずつ読みに入りました。英語も、フルスペルから始まりました。更に英語の点字には特有の点字略字・縮字というのが、290種類あり、それも覚えなければなりません。彼にとっては、最初の1学期が最も辛く、苦しい時だったと思いますが、1年生を終了する頃には1ページ、約300文字を5分程度で読むことができるようになりました。英語の略字・縮字を読んだり書いたりするのも大変な努力が必要でしたが、忍耐強く取り組み、2年生の頃には、だいたいマスターしました。点字の学習では、スタートが速ければ速いほど、そして年齢が若ければ若いほどよいということを改めて思いました。そして、今年(2012年)の3月、T君は高等部普通科3年を卒業し、私も一緒に盲学校を卒業(退職)するというとても記念すべき時を与えられて感謝しています。これからの彼の人生に幸あらんことを祈っています。補足すると、彼はパソコンに精通しており、点字学習の合間に、私は彼からパソコンについていろいろと教えてもらいました。私は、使い方は分かっていても、パソコンの具体的な知識は乏しかったのです。試行錯誤のパソコン術でしたが、T君との対話によって多くのことを教えてもらいました。
 かくして、私の盲学校の教員生活も終点を迎えることとなりました。この年は中途失明の学生の中に3年生が何人かおり、彼らは理療科で学んだ人たちですが、共に卒業を迎える「学園広場」となりました。私にとって忘れられない、とてもよい年となりました。私の「我が人生旅日記」は今回をもって終了します。次回の第40回は、我が恩師、鈴木彪平先生の人と人生を書かせていただきます。この最後の「私の人生旅日記」を正に thank you.(39)感謝の人生で締め括ることができたこと、これもまた大きな感謝です。



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