最終話 我が恩師、鈴木彪平先生の生涯と業績




1.イエス・キリストとの出会いと生涯
 鈴木彪平先生は1914(大正3)年1月28日に8人兄弟の7番目として東京に生まれた。先生の父親は、先生が7歳の時に50歳で病死した。そのために母親の手によって育てられたが、兄たちの協力と苦学生としての生活を続け、大学へ進んだ。1936年、明治大学政経学部を卒業、東芝に入社した。しかし、その喜びもつかの間、社会人バスケットボールのリーグ戦で三越との試合中、衝突事故により、眼底出血をおこし、左目を失う。翌年視力の回復を願って千葉医大に入院して手術を受けたが、病状は思わしくなく、両眼を失明し、その年の暮れに心に大きな重荷を負って退院した。その頃のことを振り返って、遺稿集「なきに等しい者」の中で、次のように記している。「治療中も一向によくならぬ症状に、毎日が不安と焦燥の連続で、もし母が近くに付き添っていなかったら、4階の病室の窓から飛び降りたい衝動を抑え得なかっただろう。」、そんな先生をキリスト教へと導いたのは、先生の従兄弟であった。しばしの苦闘を経て鈴木先生は、新約聖書「ヨハネによる福音書」の9章1〜3節の言葉に出会い、神の救いを体験したのであった。そこには以下のように記されている。新共同訳聖書より引用する。「さて、イエスが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」先生はこの言葉により、失明の宿命感が打破され、使命感に生きる人生へと変えられたのであった。そして1940年のクリスマスに洗礼を受け、翌年4月に埼玉県立盲学校の教師となった。そこで英語科と社会科を担当し、その後間もなく、湯原たみさんと結婚し、長女多恵さんが生まれた。その当初から、鈴木先生は生徒たちにキリスト教による生きる喜びを伝えたいという気持ちになり、自宅を開放して毎週土曜日の午後、聖書研究会を開くようになった。4年間教壇に立ったが、その間に数人の生徒がキリスト教に導かれ、新たな人生を見いだすことになった。
 1945年春、米軍機による本土への空襲が激しくなり、危険が迫ったので、先生一家は北海道に疎開し、農業を始めた。3町歩の土地を購入し、戦中戦後の食料危機の時代を乗り切った。その間に長男修平さんと次男義平さんが与えられた。
 1949年春、鈴木先生は栃木県立盲学校の教師として、再び教壇に立つことになった。そして1954年の夏から2年間、先生はフルブライトの交換留学生として盲教育と盲人福祉について研究するため渡米した。ニューヨークのハンター大学とバークレーのカリフォルニア大学でそれぞれ1年、一人で生活し多くのことを学んだ。妻と3人の子どもたちを日本に残しての留学に対する勇気と実行力は、当時のみならず今日でも賞讃に価するであろう。
 1960年、次女地恵さんが生まれた。また、その頃鈴木先生の家でもたれていた聖書研究会の卒業生が「愛信会」を結成した。キリストにある交わりを深めると同時に、後輩たちに伝道することがその目的であった。1964年頃にはその数が30名程になり、自分たちの活動の拠点として愛信ホームを建てることが計画された。この施設を建設するために、募金集めやチャリティーショーを実施し、多くの協力を得て、1975年に10年間で集めた資金を基に、宇都宮市白沢町に53坪の土地を取得し、それに続く4年間で建設費が集められ、1978年12月11日に32坪の愛信ホームの完成を見るにいたった。これは、教育者鈴木彪平先生と教え子たちの愛と信仰の結晶であった。
 1976年、鈴木先生は27年務めた栃木県立盲学校を退職することになり、その後任に教え子の一人である筆者(阿久津)に、バトンを引き継いだ。そして4年後の1980年12月23日、鈴木先生の業績が世に認められ、読売新聞より福祉賞が内定し、新聞記者からそのインタビューを受けているそのさなかに、突然襲ってきた心筋梗塞のために天国へと召されていった。66歳の短い生涯であったが、それはイエス・キリストへの感謝と喜びに満ちた人生であった。
2.人と業績
(1)愛の教育相談
 クリスチャンとして、また一人の教師として、生徒たちの良き相談相手になり、生徒たちの面倒を徹底的にみたと言われている。一つの例を挙げるならば、結婚式の当日、親代わりとして、教え子を鈴木先生の家から送り出したというのがある。その他にも数多くの真実に溢れた出来事があった。正に、生徒と共に悩み・苦しみ・生きた教師であった。
(2)優れた進路指導
 先生は在職中、中学部と高等部の主事を併せて20年余に渡り務めた。当時の教育課程は現在と異なり、理療科を中心にしたもので、栃木盲で、1971年度まで普通科が設置されなかった。しかし、先生は、アメリカでの留学体験を基に、個性を生かしその人にあった適切な進路があるべきだという強い信念をもち、優れた進路指導を行なった。その一人、小林猛さんは、鈴木先生との出会いを通してクリスチャンになり、献身し、東京聖書学院に進み、ホーリネス教団の牧師となり、40年間、東京練馬区にあるホーリネス教団練馬福音伝道所で多くの信徒を育成し、魂の救いへと導いた。同様に亀山光雄さんも関東学院に進学し、大阪寝屋川市にあるバプテスト教会の牧師となり、長年にわたり教会の発展に寄与した。また地元では、視覚障害者の文化の発展に貢献をした。さらに、英語に才能をもっていた小森禎司さんは、盲学校を卒業すると桜美林短大で学び、その後明治学院大に進み、同大学院を経て桜美林短大の講師として教壇に立った。さらに数年後、カリフォルニアにあるクレアモント大学に留学し、ジョン・ミルトンの研究者としてマスター・コースを取得して帰国、長年桜美林短大、そして桜美林大学で教授として活躍した。70歳で退職をしたが、72歳の若さで天国へと旅立って行った。小森さんは盲学校の出身で一般大学の教授としては、第1号と言われている。平山益太さんも大学に進学し、栃木県視聴覚障害者情報センターで長年点訳ボランティアの養成等36年働いて、3年前に退職した。筆者も鈴木先生との出会いにより、大学進学を志し、母校で英語の教師として働くことができた。栃木盲学校は創立104年になるが、鈴木先生の在職中に、盲学校から大学へ進んだ生徒が数多くいたことは、当時地方の盲学校からの多数の大学進学は異例というべきである。先生は、先見の明をもって、いかに適切な進路指導を行なったかが理解できよう。進学指導のみならず、就職・結婚の世話もし、10組を超える教え子たちの仲人をした。また鈴木先生は、理療科の価値も高く評価しており、三療業を目指す生徒たちにも同様に個性を生かした指導を行なった。
(3)盲導犬育成に貢献
 1967年8月、鈴木先生はロサンゼルスにある盲導犬センター、Eye Dod Foundationで訓練を受け、アルマというジャーマン・シェパードを取得した。それがきっかけとなり、全国の盲学校の教師たちが、先生の紹介で同じ場所から盲導犬をもらうことになった。当時日本には、盲導犬の訓練施設は2〜3箇所しかなかった。自分の得た盲導犬によって、その便利さを知り、栃木県内にも訓練施設を願うようになった。折しも東京より3人の青年が、盲導犬育成に熱意をもって宇都宮にやって来た。そこで県知事と交渉を進め、県議会の承認を取り付け、1974年、財団法人・栃木県盲導犬センターが設立された。そして亡くなるまで、理事として盲導犬育成に協力を惜しまなかった。
(4)キリスト教信仰者としての働き
 1949年,栃木県宇都宮市に居住してから人生を閉じるまでの31年間、日本キリスト教団四条町教会に籍をおき、忠実な信徒として教会生活を守るとともに、責任役員として、牧師を助け、重責を担った。さらに教会附属の清愛幼稚園で理事も務め、幼児教育にも力を尽くした。一方、日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)にも、1951年の創立以来積極的に参加した。ことに盲学校クリスチャン教師の組織である、盲教育者部を創設し、その部長を18年間務め、リーダーシップを発揮した。1976年は盲伝が創立25週年を迎えた年であったが、日本キリスト教団教育部から900万円の特別献金が贈られた。鈴木先生は盲伝の生みの親である、好本督氏を深く尊敬していて、その好本氏が生前強調していた「アジアの盲人たちとの連帯」を盲伝の中で訴えた。それが支持され、献金の一部が特別プロジェクトに使われることになった。さっそく初代の国際交流委員長に推薦され、韓国・台湾・フィリピン・シンガポール・マレーシア・タイ・ホンコンの7か国に使節団を派遣し、大きな成果をあげた。このことを契機として、盲伝は現在も積極的に国際交流を推進しており、新たにミャンマー・韓国・バングラディッシュなどとも密接な関係を築いている。
 1979年7月、箱根で開かれた第22回盲伝総会において、鈴木先生は第3代議長に選出された。永年にわたっての信徒伝道者としての実績が、多くの盲伝の会員から支持されたからだと思う。その翌年、韓国から盲信徒が日本を訪れ、盛大な交流会が持たれ、鈴木先生夫妻も10月にその返礼として韓国を訪れ、信仰による交わりを深めた。しかし、それから2ヶ月後、突然襲ってきた心筋梗塞によって地上での生涯を閉じたのであった。先生は生徒を愛し、生徒と共に生き、そして亡くなった。しかし、数十名におよぶクリスチャンの教え子たちの心の中には、32年過ぎた今日でも、キリストの光を高く掲げて生きた、信仰の人、鈴木彪平先生はなおも生きて働いているのである。妻、たみさんは2年間病気のために入院生活をしたが、1991年11月5日に天国の彪平先生のところへと旅立たれた。
 最後にたみ夫人の夫を偲ぶ短歌を紹介して、恩師、鈴木彪平先生への感謝の文章を終えたいと思う。雨降れば吾に傘をば傾けし盲しいの夫在りし日偲ばゆ
★後書き★
 2012年、私は退職をしましたが、この8ヶ月、「我が人生旅日記」を書くことによって、少年期、青年期、そして退職までの53年を振返ることができました。53年間は、短いようで、歴史は正確に刻まれていたことを、今痛感しております。
 今回のために、多大な御協力をしてくださった友人の皆様には心より感謝申上げます。特に私の原稿の校正を快く引き受けてくださった阿佐光也様、音声化に協力中の川口様、同窓会事務局の市田様に、心より感謝いたしております。
 私の思い出を、私の視点から40回に分けて書かせていただきました。これからの盲学校の発展と充実をお祈りすると共に、児童・生徒・教職員・保護者の皆様にも、栃木県立盲学校の息遣いを共に思い起こし、50年間の盲学校の歴史を共に辿っていただけましたら、この上も無い喜びと感謝です。また、同窓会のホームページには多くの方が、それぞれの人生の思い出を書いていただけましたら、昭和・平成を生きた者として、懐かしく、楽しい思い出のアルバムとなると思います。さらに若い人たちの投稿があれば、すばらしい「とちのみ会」となることでしょう。
 私も一息ついて、同窓会のお許しがいただけましたら、来年新たなシリーズで登場したいと思っています。その時はまたよろしくお願い致します。
 来るべき2013年が、皆様お一人お一人にとりまして、幸いで実り豊かな年となりますようにと願いつつ、私の旅日記を終了させていただきます。ご講読を心より感謝いたします。ありがとうございました。2012年11月13日(旧栃木県立盲学校創立記念日)



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