2015年5月前半
まず、最初に最近読んだ本の紹介を2冊します。
立松和平著「浅間山」。これは、1783年に噴火した浅間山での事件を中心に書かれた物語です。いくつもの村がほぼ全滅し、残された30人程度の人たちが、若い人たちから順に、家庭を作り、結婚をしなおすという実話です。こんなこともあったのか?と、感心させられました。人は、生きるために、過去から脱出し、新しい人生を始めなければならないことを教えられました。
もう1冊は、「音調の谷」という長編です。明治時代に、全国の金山・銀山・銅山を回っての仕事師の話です。最終的には、栃木県の銅山の話になります。足尾銅山では、イギリスを始め、海外へ銅を輸出し、繁栄します。しかしながら、銅を生産するために、生み出される硫酸などが、渡良瀬川流域に流れ出し、農業は絶滅となり、魚を食べた人たちは、様々な公害で命を失いました。生きる手立てを失った人たちの中では、若い女性たちは、体を捧げての生活費を稼ぎださなければなりません。男たちは、銅を掘り出すための命がけの仕事でした。銅山で働く人たちは、10年くらいは稼ぎが良いのですが、やがて、作業中、吸い込む石の粉から、「よろけ」といわれる肺病にかかり、30代後半で病気になって死んで行くのです。山は荒れ果て、大雨のために、土砂崩れで沢山の人が亡くなります。また町全体が火災のために全焼してしまうこともありました。農民の中には、近隣の町へ引っ越す人もいましたが、現在も、北海道に移住し、栃木村という集落があることを、今回、知りました。田中正造さんが、明治天皇に直訴したことは、私も知っていましたが、こんなに酷いことであったことは、地元の事ながら知りませんでした。原発に苦しむ福島の人たちのこと、基地問題で、政府と対立状態にある沖縄県の人たちのこと等、思いを重ねてこの本を読みました。
5月2日
安倍総理は、アメリカ国会でスピーチをしました。まず、私が理解したことを書きます。安倍総理は、アメリカで三つのことを公約したのではないでしょうか?
1つは、自衛隊を軍隊として、海外へ派遣します。
2つ目は、集団的自衛権によって、アメリカと同盟国として、何時でも、どこへでも出かけて行って戦います。
3つ目は、TPPを守り、日本では、農業を大規模化し、米をはじめ、乳製品などの関税を下げます。
これから日本の農業はどうなるか?高齢化する農業、小規模の農業は消えてしまうのではないかと思います。農協は潤っても、農民たちは、高い機会を買い、返済に追われています。10ヘクタール以上も持たなければ存続できないといわれています。日本の農民の平均は、1ヘクタールと聞いています。
さて、安倍総理のスピーチについてです。内容については、賛否両論あることでしょう。そもそもこのスピーチは、東大を卒業し、外務省勤務の人が英語にしたのですから、そのスピーチは完璧と思います。当日は、米議員全員に、スピーチの英語版が配布されました。議員の皆さんは、その原稿を読みながら、ユーモアのある時には笑い、拍手をしていました。私は、インターネットで、総理の英語を聞いて、唖然としてしまいました。一つひとつの英単語をたどたどしく読むのです。正に「ジャングリッシュ」ト言われる、ジャパニーズイングリッシュの代表作品でした。ツイッターでのコメントは差し控えます。優秀なスピーチライターがいました。しかし、総理の英語の読み方、発音等にアドバイスをする人は、だれもいなかったのでしょうか?日本語でスピーチをするとか、昭江夫人が代読してはどうだったかな?と、思わずにはいられませんでした。「痛切な反省」という言葉はありましたが、慰安婦や侵略についての謝罪が全くなく、アメリカサイドからも批判の声が出ました。その結果、5月5日には、日本の新聞にアメリカに住む187人の学者たちから、日本政府に対して、正しい歴史認識をして、平和な友好関係を結ぶようにとの広告記事が出されました。
マスメディアで、ほとんと取り上げなかった記事がもう1つありました。安倍総理がアメリカに向かった時に、実は、7千人の市民活動家たちが、アメリカの国連に行っていたのでした。目的は、集団的自衛権に対する反対抗議でした。マスメディアは、ほんの一部を除いて無視していました。報道の自由、言論の自由はどこへ行ってしまったのでしょうか?
5月3日
憲法記念日。あれから68年になりますが、憲法なんぞ使わずに、拡大解釈で全てを突破しようとする、暴走族が国会を支配しているように感じてなりません。
ここで、英語の教育について書きます。文科省は、小学3年生から英語を教えるように、指導要領を変えようとしています。英語を聴くこと、話すことが苦手な日本人。だから早く始めようとの事からと思います。文芸春秋の5月号では、国語学者の金田一秀穂さんと、英文学者の外山滋比古さんが英語教育について対談をしていました。英語を早く始めた方が良いとの考えが流行しているが、極めて危険であるというのです。金田一さんの息子さんが、2歳から5歳までの3年間、アメリカにいました。日本に来てから、バイリンガル(日本語と英語を話すことができること)になったかと思われました。ところが日常会話では、英語、日本語の会話をすることができても、自分の考えをまとめるとなると、二つの言葉が互いに邪魔をして、思考力が低下してしまうというのです。
私も同様な経験をしたことがあります。盲学校の中学部に、帰国生がいました。彼は、父親の関係で、4歳から12歳まで、アメリカのテキサス州にいて、地元のアメリカの小学校に通いました。盲学校に来た時は、実に流暢な英語を話し、私もときどき教えてもらうことがありました。さて、中学2年生の時に、英語のスピーチコンテストに出ることになりました。対象者は、県内に住む、帰国子女です。英語でスピーチを書くのだから問題はないだろうと、思いましたが、いざとなると、話すことができても、文をまとめることができませんでした。何故か?おそらく読書をしないと文を書いたり、まとめたりすることができないのではないかと思います。そこで、彼に思ってること、言いたいこと、経験したことを話してもらい、それから文にまとめるという作業をしたことがあります。
日本語も英語も、知識の源が、読書にあることを痛感しました。「読書は心のオアシス」ばかりではなくて、文章を書く原動力にもなるものです。そういえば、村上春樹さんの本を読むと、読書の話がいたるところで書いてあります。認知症の予防にもなりますからね。
それでは、今日はこの辺で失礼します。今月は、もう一度書きたいと思います。
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