迷い道





 私は、生まれながらの視覚障害者である。7歳になると、地元の盲学校に入学し、高等学校を卒業し、東京の私立大学の英文科に入学することができた。卒業と共に、恩師の後をついで、母校の盲学校で英語の教師になることができた。何と幸いなことであったか!今年で64歳になる。教員として36年間勤め、現在は年金生活をしている。以前住んでいた家が古くなったこと、土地が狭く来客が来ると、路駐が邪魔だとクレームが絶えないことがきっかけで、7年前に引越しを決めた。
 そんな訳で、長年住んでいた所から、200メートル程、東に移動したところに引っ越した。バス停が今までどおりと同じということで、一人歩きが可能というのが一番の理由である。ところが一昨年のこと、区画整理によってバス停が150メートル西へ移動をしてしまった。これは、想定外、僅かなズレでも私にとっては大変なできごとになった。
 30年歩き慣れたバス停までの道のりが変わってしまった。しかし、やはり一人で歩いて行く事ができないと何かと不便なことも多い。一人で歩いていると、近所の奥さんたちから「一人で歩いて大丈夫ですか?奥さんはどうしているのですか?」との声がかけられることがある。そんな時、私は次のように答えている。「はい、いつも妻が一緒という訳には行きませんし、一人で生きていくことに慣れていないと、私のしたいことができないこともありますし、妻が病気になったら何もできなくなりますからね。私は足も不自由ですが、フラフラ・ヨタヨタしながらでも、人生を歩いて生きたいと思うのですよ。結局どっちかが先に天国に行くのですが、絶対私が先という保証はありませんからね」と。
 しかしそんなある日、いつもならバス停まで10分程度なのだが、勘違いをして、方向を間違えてしまった。一度感覚を失い、焦りだすと、分かるはずの所が全く分からなくなってしまう。私にとっての道しるべは、県道を走る車の音なのだ。その車の音はいつもより遠くの方から確かに聞こえるのだが、いつもと違う。何故だろう、何故だろう…。
 福祉センターでの点字教室には遅れたくないし…。冷静になろうと、しばらく立ち尽くして、考えをまとめようとしたがそれでも分からない、どうしよう…。
 その時だった。「バス停に行くのですか?」という、若い女性の声が後ろから聞こえ。「はい、毎日通る道なのですが、迷ってしまいました。」、「そうですか、私もこれからバスに乗りますので、一緒に行きましょう!」との、優しい声。歌手の由紀さおりさんに似ている声だ。長年の人生から、女性の声は、年齢25歳くらいと思った。私は、右手に白状を持ち左手で、女性の右肘につかまって歩き始めた。
 「あの、この辺にお住まいなのですか?」と、私は話題をふってみた。「いいえ、夕べは私の彼氏の家に泊まって、彼の家に車を止めて、これからバスに乗って市内の方で仕事をするのです。」と女性は答えた。私は、その女性の優しさに感謝をすると共に、ドキッとしてしまった。彼女の話し方には何の屈託もない。私の感覚では、女性が独身なのに、彼の家に泊まるということなどを見知らぬ人に話すという感覚は、全く想像もつかない。
 ああ、我輩も古い人間なのだなあ、と納得せずにはいられなかった。
 1973年、かぐや姫が出したヒット曲「神田川」の頃から若い男女が同棲することが当たり前のようになっていった。私の好きな歌である。風というフォークグループの、「22歳の別れ」という曲では、なんと17歳から一緒に暮らしたという歌詞がある。私たちが受けた教育は、結婚をするまでは純血を守りましょうだった。しかし、迷い道にたたずんでいる私を助けてくれた若い女性に、私は本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。そういう時代に歴史は変わっているのだなあと彼女を通して教えられた。彼女の勇気と優しさ、親切のお陰で無事予定のバスに乗ることができた。
 その女性との再会はあれ以来ない。時々また会いたいなあ!と、1人で歩く時に思い出す。今度は、彼氏と上手くいっているか聞いてみたいものだ!
 今では迷い込むことはなくなったが、迷うことは時には、楽しい思い出を経験することがある。小鳥の声や子供たちの明るい声に幸せを感じることもある。だから、一人旅も分からないからこそ楽しいロマンスがあるのだと思う。人生も迷い道の連続である。でも良いではないか、必ず助けの手を出してくれる人がいると信じるだけで楽しくなる、ワクワクすることができる。
 私の場合、目の前は何も見えない。人生も1寸先は闇ではないか?迷いつつ、悩みつつ歩くことは、辛いこともあるけど、人生のアドベンチャーだと思う。そして今日も、迷いながらの人生を歩いているのである。







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