1 はじめに




 今回、ひょんな縁から栃木県立盲学校の理療科教員の市田先生から、栃木盲の同窓会用の原稿を頼まれました。
 さてさて、何についてまとめればご厚情に叶うのでしょうか。私が、現在盲学校の教壇に立っていると、平成の視覚障害教育の困難さを毎日のように感じています。生徒の人数は少なくなる一方ですし、学科の学習も実技の習得も困難、障害の重度化や重複化、職域の確保など、生徒の状況と支援に苦慮することばかりです。
 また、我が身が視覚障害を身にすると、器具や環境といったものは整備されつつありますが、その人同の心情の冷たさに触れ、社会との共存や理解、自立についても厳しい現実に唇をかみしめることもあります。
 世界の視覚障害者の自立を考えると、日本の視覚障害者の自立は世界1と想うのは手前みそでしょうか。何でも欧米が進んでいるのでしょうか?これでも日本の視覚障害者は「鍼灸按摩」を持ち、それなりに幸せとも思います。全国の盲学校の草創期に多くの視覚障害者が奮闘していました。私の父親も全盲で、私を大学院まで学ばせてくれました。その父親は戦中に足利盲に通っていたことを思い出しました。
 また、私が奉職してる群馬の盲学校と共に明治・大正期に創立し、先人の視覚障害者が奮闘した、両毛(群馬県と栃木県の両県をあわせた地域の略称)の盲学校4校(高崎・前橋・桐生・足利)の盲学校について関係事項を集めて表題のような文章をまとめました。
 私の研究の興味関心は江戸時代の盲人達の悪戦苦闘にあります。江戸時代の盲人達は「当道座)によって、取りあえずは身分を守ることができていました。この江戸時代に特権を許された当道座は、1871年(明治4年)11月3日、太政官の布告により廃止され、多くの盲人が貧窮していました。そんな中、翌年の1872年(明治5年)8月に学制が発布され、続いて1874年(明治7年)8月18日に医制が発布されました。
 この大きな歴史の潮流に巻き込まれた盲人達は生活に困窮する者も多かったようです。それを見た外国人や地方の篤志家・宗教家などが盲学校の創立に尽力していきました。全部が晴眼の篤志家だけでなく、同じ盲人達の奮闘で創立された学校もあります。
 両毛の盲学校4校共に視覚障害者が自らの障害も顧みずに、医師・僧侶・キリスト教徒などの支援を借りて、自らも困窮でありながら学校を運営していました。明治から昭和の時代の中で、学校経営の経済的な困難、関東大震災、第2次世界大戦の災いを切り抜けました。
 しかし、それでも学制の変更、生徒数の激減で最後には両毛線には前橋の群馬県立盲学校だけしか残りませんでした。更には、2007年(平成19年)4月1日より特別支援教育の施行が始まり、多くの盲学校が校名に「特別支援」などの文字が使われる用になってきました。本県も何回か諮問があり、「盲」から「視覚特別支援学校」の名称変更や専攻科の研究や多種の障害の併置の課題が問題となっています。
 今までは近代の視覚障害者について、筆を執ったことはあまりありませんでしたが、どうしても近代の盲学校や視覚障害者についても問い合わせが舞い込んできます。
 本稿を進めるに当たり、両毛線の始まりの高崎盲 → 前橋盲 → 桐生盲 → 足利盲の順でいきます。読まれた皆様に視覚障害者の苦難や理解が伝われば幸いです。



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