3 高崎盲学校




 私立高崎盲学校は、1924年(大正13年)から1957年(昭和32年)の廃校まで、33年間の開校でした。高崎市羅漢町の法輪寺内(高崎市羅漢町7−3)に設立されました。廃校後は、法輪寺保育園となっています。高崎駅から徒歩で10分ほどの場所にあります。法輪寺は、天台宗で、羅漢山正覚院法輪寺といい、本尊・五百羅漢です。私立高崎聾学校もほぼ同時期に設立され、高崎市並榎町490番地にありました。
 「たかさき100年」(『広報たかさき』第32回 平成10年3月1日号掲載)の「私立盲学校と聾唖学校」に以下の文章があります。
 「目や耳が不自由な人に対する教育は、指導方法が確立されていなかったことや、一般社会の理解も低かったことなどが原因でその普及が遅れていました。視力に障害がある人に対する教育は、江戸時代から鍼・きゅう技術の指導があり、明治以降の高崎でも行われていました。また、医師法により鍼・きゅうについても資格が必要となったため、大正5年(1916年)ころから高崎市の眼科医・小林春造や外科医・秋田聰太郎などが、鍼灸師やその弟子のための基礎医学講義を熱心に行っていました。この実績をもとに、大正11年(1922年)4月18日、鍼按組合員の寄付金により羅漢町の法輪寺に高崎鍼按学校が設立され、同13年に文部省の認可を得て「私立高崎盲学校」となりました。校長は小林春造、設立者は法輪寺住職・三浦興泰で、同校は昭和2年(1927年)県立移管問題が起きたときも独自の道を歩み、戦後の教育改革の後、その役目を終えて昭和32年(1957年)廃校になりました。
 一方、並榎町常仙寺の住職・保坂元哉は、赤坂町長松寺の住職で子守学校の経営者でもあった山端息耕に勧められ、県知事の認可を得て大正11年4月10日「私立高崎聾唖学校」を設立、北小学校にあった子守学校の教室を借用して、同年5月10日開校しました。保坂は学校創立に先立ち、東京聾唖学校師範科普通科に入学し、聾唖教育の実際を学ぶほどの打ち込みようでした。この情熱のもとになったのは、法律家を志しながら父の死により東京帝国大学法科を中退せざるを得なかった自らの運命と、難聴の夫人の苦しみを共に悩んだ体験であったといわれています。高崎聾唖学校は、保坂校長と石川進・浅井(深美)福道の2人の教員が中心となり、わずか6人の生徒で出発しました。県内初の聾唖学校であったため、指導の苦心や経営の苦労も並大抵ではありませんでした。
 なお、大正8年の県議会で、「普通教育が拡充された中に我等が同胞の障害者の教育機関がないのは本県教育の欠陥である」という趣旨の県議案が満場一致で可決されましたが、その実現は高崎聾唖学校と私立桐生盲学校が合併して県立盲唖学校が誕生する昭和2年(1927年)まで待たねばなりませんでした。障害者のための教育には、しばらくの間ここに登場したような篤志家の力を借りなければならなかったのです。」
 私の先輩達が編纂した群馬県盲教育史70周年記念事業実行委員会篇『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校、1976年)の巻頭写真に「私立高崎鍼按学校建築図面(大正13年」があります。後述する市立桐生盲学校のように間口等が記載されていないのは残念です。見取り図には、校舎と附属建物、野外体操場があります。「同建築図面(同年)」には2階建ての図面で、階下には、教室3部屋、廊下、教員室、実地室、押し入れ2カ所、昇降口、湯飲み所、小使い室、便所、玄関、非常口。2階には、教室3部屋、廊下、実地室、機械室とあります。
 また、「たかさき100年」(『広報たかさき』第20回 平成9年9月1日号掲載 関東大震災と高崎)には、「大正12年(1923年)9月1日の昼ごろ、高崎は大きな地震に襲われました。電柱はグラグラと動き、棚の上にあったものが音を立てて落ち、何かにつかまらなければ立っていられないほどでした。激しい揺れはおよそ10分間続きました。午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が起こったのでした。高崎板紙株式会社(現高崎製紙)の大煙突2本が途中から折れ、上州絹糸紡績会社など多くの工場の煙突も折れてしまいました。土蔵の壁が崩れ落ちたのも多かったのですが、つぶれた家はありませんでした。夜までに大小の余震が30回以上も続き、南東方面の空は真っ赤に染まりました。いろいろな流言飛語も流れました。人同は道路や広場に避難し、ほとんど寝ないで夜を明かすありさまでした。やがて、東京で大災害が起こったことが伝えられたのでした。
 9月2日の午後、所沢の飛行場を飛び立った飛行機が高崎の連隊の上空を旋回して通信筒を落とし、連隊を通じて救援を要請しました。高崎市でも救援活動を始めました。救援物資を集め、3班の救護班を結成して東京に派遣することにしたのです。荒川の鉄橋は不通になっていましたが、この日の午後遅くなると、埼玉県の川口駅から通じていた高崎線に乗って、着のみ着のままの避難者が高崎駅にたどり着くようになりました。煤と泥で汚れた人たちで列車はすべて満員でした。駅頭では、市内のいろいろな団体が救護所を設けて、次から次へとたどり着く避難者に対し、傷の手当てをしたり、食べ物や着る物を配ったり、必死の救護活動を行いました。こうした活動には、中学校や女学校の生徒たちも加わっていました。また、体一つで逃げてきた人たちには、宗教界が手を差し伸べ、高盛座(劇場)や延養寺などに無料で宿泊させました。まさに総掛かりの救護活動が行われました。
 高崎市から震災の現地東京へ派遣された救護団は、9月3日の早朝高崎駅を出発、川口駅から歩いて東京へ入りました。救護団は被害の激しかった日比谷・本郷・芝浦・築地など主に下町方面で救護活動に当たり、多くの被災者を懸命に助けました。」
 『点字毎日 激動の80年 ー 視覚障害者の歩んだ道のり ー』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)にも、関東大震災の記事が2つありました。
 9月 大震災で盲学校消失。
 関東大震災で築地盲人技術学校同愛盲など消失。日本盲人協会・東京鍼按連合会・日本援護婦人会など8団体が京浜地方で罹災盲人救護団を組織。
 10月 震災の罹災者1300人。
 震災で、災害を受け、焼け出された盲人は東京市だけでも約1300人いるが、そのうち消息の判明は百数十人。東京市では、避難盲人のため青山の明治神宮外苑のバラック小屋、総計畳数30畳を貸与。
 神戸大学図書館の「新聞記事文庫」から盲学校のデータを検索しました。報知新聞1934年(昭和9年)2月10日に皇室からの下賜金の記事が見えます。金額はいくらであったのかは不明です。その中から盲人団体や盲学校に関係するものを抜き出してみました。書簡ごとに該当の施設の件数を【 】の中に、また、該当がない場合には【該当なし】と示しました。盲学校や盲唖学校・訓盲院の数は42校で、この中には朝鮮の平壌私立盲唖学校も含まれています。盲人の社会事業団体が3施設です。所轄ごとの分布は、逓信所管3団体が11校で、文部省管轄が30校で、植民地が1校です。何県か名前がない所や数が42校と少ないので、寄付を下賜されなかった学校もあるように考えられます。ただ、廃校になった学校も見えて(杉山鍼按学校・仏眼協会盲学校など)、興味は尽きない内容になっています。
 社会事業団体に奨励金を御下賜、七百八十七団体に及ぶ。けふ紀元の佳節に当り、畏き辺りでは御恒例により社会事業御奨励の有難き思召により内地並びに植民地の社会事業団体に対し奨励金を御下賜遊ばされる旨御沙汰あり十一日の佳き日各省からそれぞれ伝達するはずであるが、光栄に浴した団体は内務省所管三百八十、司法省所管二百十、逓信省所管三、文部省所管五十九、拓務省所管百三十五の七百八十七団体であって昨年より約百団体も多く、関係の各省では大御心のほどに感激している。
(1)内務省所管三八〇団体 【2】
  北海道        【該当なし】
  東京         中央盲人福祉協会
  京都         【該当なし】
  大阪         【該当なし】
  神奈川        【該当なし】
  兵庫         【該当なし】
  長崎         【該当なし】
  新潟         【該当なし】
  埼玉         【該当なし】
  群馬         【該当なし】
  千葉         【該当なし】
  茨城         【該当なし】
  栃木         【該当なし】
  奈良         【該当なし】
  三重         【該当なし】
  愛知         【該当なし】
  静岡         【該当なし】
  山梨         【該当なし】
  滋賀         【該当なし】
  岐阜         【該当なし】
  和歌山        【該当なし】
  徳島         【該当なし】
  香川         【該当なし】
  愛媛         【該当なし】
  高知         【該当なし】
  福岡         社団法人福岡県盲唖教育慈善会
  大分         【該当なし】
  佐賀         【該当なし】
  熊本         【該当なし】
  鹿児島        【該当なし】
  京都         【該当なし】
  愛知         【該当なし】
(2)司法省所管      【0】
  東京         【該当なし】
  神奈川        【該当なし】
  千葉         【該当なし】
  茨城         【該当なし】
  大阪         【該当なし】
  京都         【該当なし】
  兵庫         【該当なし】
  東京         【該当なし】
  埼玉         【該当なし】
  神奈川        【該当なし】
  千葉         【該当なし】
  茨城         【該当なし】
  群馬         【該当なし】
  栃木         【該当なし】
  静岡         【該当なし】
  山梨         【該当なし】
  長野         【該当なし】
  新潟         【該当なし】
  京都         【該当なし】
  大阪         【該当なし】
  和歌山        【該当なし】
  奈良         【該当なし】
  滋賀         【該当なし】
  兵庫         【該当なし】
  徳島         【該当なし】
  高知         【該当なし】
  香川         【該当なし】
  愛知         【該当なし】
  三重         【該当なし】
  岐阜         【該当なし】
  福井         【該当なし】
  石川         【該当なし】
  広島         【該当なし】
  山口         【該当なし】
  岡山         【該当なし】
  鳥取         【該当なし】
  愛媛         【該当なし】
  長崎         【該当なし】
  福岡         【該当なし】
  佐賀         【該当なし】
  大分         【該当なし】
  熊本         【該当なし】
  鹿児島        【該当なし】
  宮崎         【該当なし】
  沖縄         【該当なし】
  山形         【該当なし】現在・廃校
  福島         【該当なし】
  岩手         【該当なし】
  秋田         【該当なし】
  青森         【該当なし】
  北海道        【該当なし】
  樺太         【該当なし】
(3)逓信所管3団体    【12】
  兵庫         【該当なし】
  福岡         【該当なし】
  静岡         私立浜松盲学校
  愛知         財団法人私立岡崎盲唖学校、私立豊橋盲唖学校
  三重         神都訓盲院
  大阪         【不明】
  兵庫         私立尼崎訓盲院
  鳥取         財団法人鳥取盲唖学校
  佐賀         佐賀盲唖学校
  宮崎         日向訓盲院【現在・宮崎県立明星視覚支援学校】、延岡盲唖学校【現在・宮崎県立延岡ととろ聴覚支援学校】
  沖縄         私立沖縄盲学校
  東京         【該当なし】
  大阪         【該当なし】
  滋賀         【該当なし】
  東京         帝国盲教育会
  岡山         【該当なし】
(4)文部省所管      【30】
  北海道        私立函館盲唖院、財団法人小樽盲唖学校、旭川盲唖学校、  札幌盲学校。
  青森         青森盲唖学校、私立八戸盲唖学校。
  山形         私立山形盲学校、私立米沢盲学校、私立山形県荘内盲学校。
  福島         私立会津盲学校、財団法人磐城訓盲院、福島盲唖学校、私立喜多方盲学校。
  茨城         茨城県土浦盲学校【戦中に廃校】
  栃木         私立宇都宮盲唖学校、足利盲学校。
  群馬         高崎盲学校
  埼玉         埼玉盲唖学校(現在・埼玉県特別支援学校 塙保己一学園)、埼玉盲人技術学校、熊谷盲学校(現在・熊谷理療技術高等盲学校)。
  千葉         【該当なし】
  東京         盲人技術学校(現在・東京都立文京盲学校)、東京同愛盲学 校(現在・東京ヘレンケラー学院)、杉山鍼按学校(終戦時に廃校)、仏眼協会盲学校(終戦時に廃校)、八王子盲学校。
  神奈川        横浜訓盲院、横浜盲人学校。
  新潟         高田盲学校
  山梨         私立山梨盲唖学校
  岐阜         岐阜盲学校
(5)拓務省所管      【1】
  朝鮮         平壌私立盲唖学校
  台湾         【該当なし】
  関東庁肺       【該当なし】
  樺太         【該当なし】
  南洋         【該当なし】
 『点字毎日 激動の80年 ー 視覚障害者の歩んだ道のり ー』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)の1944年(昭和19年)7月には、戦中の高崎盲学校についての記事もあります。
 「高崎盲への転学社急増。盲学校の疎開で、群馬県高崎盲への転学者が激増。既に築地盲から21人、仏盲から8人、同愛・杉山盲数名づつ転学疎開。同校では収容しきれないため、隣接のお寺の本堂を臨時寄宿舎に解放して、その受け入れに奔走。」
 このように、高崎盲は東京の盲学校の疎開先という地理的な条件で群馬県内の盲学校としては最後まで群馬県立盲学校に統合されなかった理由が推測されます。東京の築地盲とは現在の都立文京盲、仏眼協会盲とは浅草にあった盲学校で戦災で消失して廃校、杉山鍼按学校は剣豪・千葉周作の孫・勝太郎が創建した盲学校で、豊島区大塚駅前にありましたが、やはり戦災で消失して廃校となりました。同愛は現在のヘレンケラー学院のことです。



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