4 前橋盲学校から群馬県立盲学校へ




 前橋盲学校については、創立の恩師・瀬間福一郎、日本で最初の病院マッサージ師・富岡兵吉、点字の語り部・栗原光沢吉(つやきち)の3人についてまとめました。その前に、戦後すぐの点字毎日『激動の80年』(毎日新聞社、2002年)を私が翻刻しましたので、紹介します。昭和21年(1946年)年8月、「群盲盲人野球大会」。群馬盲は、卒業生の要望で久しく絶えていた盲人野球を復活し、18日、卒業生対在校生の野球試合を開催。18対5で在校生の勝利。なお、同校では全国大会の開催を働きかける。
 昭和33年(1958年)8月、高野佐太郎君「こころ」を英語で点訳。群馬大学学芸部4年、高野佐太郎君は、夏目漱石の「こころ」を英語で点訳。日赤本社を通してヘレンケラー女史に寄贈。高野佐太郎氏は、現在群馬点訳奉仕の会会長です。本校の英語・体育教諭。柔道部顧問として20数年奉職されていました。高野氏にお聞きしましたら、点訳は、「こころ」以外にも短編を幾つか行い、もう一度ヘレンケラーに送ったそうです。ヘレンケラーからは、点訳の礼状に本人がサインしたものが送られてきたとのことです。このような逸話を知りませんでした。勤務校の歴史を知らないものです。では、本論に入ります。
(1)群馬盲創立の恩人・瀬間福一郎
 群馬盲の創建に尽力した人に瀬間福一郎(せま ふくいちろう、1877年12月〜1962年10月)がおります。『群馬県盲教育史』から瀬間について紹介してみましょう。記念誌には、瀬間の横浜訓盲院の教員の経験とその指導力の高さ、失明軍人にとどまらない視覚障害者全体の自立を支援しようとしての奮闘が描かれています。瀬間は、盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事をしながら草創期の苦難を耐えて視覚障害教育に尽力しました。
 1877年(明治10年)12月、群馬県北甘楽郡馬山村「現在は甘楽郡下仁田町馬山」に生まれ、5歳のころに完全に失明したが、下仁田に盲人の城定という鍼医がいて、毎日4キロの道を通って鍼灸按摩の修行をしたといいます。現在とは道路事情も悪い中での修行の行き帰りはどんなに痛い思うや、やるせない道のりだったでしょうか。
 1893年(明治26年)、東京盲唖学校に入学。奥村三策から点字と鍼灸理論と鍼実技を教授される。
 1897年(明治30年)、東京盲唖学校を卒業し、横浜訓盲院の教師になる。キリスト教の洗礼を受ける。
 1899年(明治32年)、横浜訓盲院を退職し、馬山村に帰り磯部で開業。盲学校の数が少なく、故郷の群馬の盲人達の教育に志していたと考えられます。
 1901年(明治34年)、前橋市で開業。1901年に点字が官報に掲載され、点字草創期の苦難があったと考えられますし、また点字により多くの情報が獲得できるようになったとも言えます。現在は、点字使用者が少なく、この大発明が泣いている現状でもあります。
 1902年(明治36年)、自宅で点字や鍼灸按摩の塾を開く。点字で一般教養から鍼按の専門内容まで教えていたといいます。
 群馬県では、1890年(明治23年)に私立上毛訓盲院が創立されましたが、2年から3年で廃校となってしまったようです。その後、日露戦争(1904年・明治37年)が起き、その戦傷者(失明者)の対策に陸軍大将・乃木希典(1849年12月25日〜1912年9月13日・満62歳没)が、兵士に報いるために心痛したといいます。
 日露戦争に関して司馬遼太郎『坂の上の雲』が有名になりました。筆者は渡辺淳一『静寂(しじま)の声 乃木希典夫妻の生涯 上・下』(文芸春秋、1988年)を読んで、感銘しました。医学史的における日露戦争の意義は二つあります。
@日清戦争以来、陸軍は白米が支給され脚気が大流行した。
 当時の最新ドイツ医学を学んだ森鴎外が白米に固執したため、兵士の希望も叶わず雑穀の支給はなかった。鴎外は、鈴木梅太郎(1874年4月7日〜1943年9月20日、満69歳没)が発見したビタミンB1を認められなかったという。梅太郎は、ノーベル賞をもらえたかもしれません。
A「正露丸」が日露戦争で下痢に苦しむ兵士のために作られた「征露丸」からの改名である。
 私の義理の伯父が群馬に高崎十五連隊に所属していました。伯父は会うたびに、「第二次世界大戦まで日露戦争・旅順攻防戦での先輩達の奮闘に倣え」と言って鼓舞しされたと教えてくれました。それは旅順攻防戦の転機となった逸話で、164高地を高崎15連隊が攻略し203高地(海抜203M)の占領に成功し、旅順攻防戦の終結につながりました。この旅順攻防戦の指揮を執っていた乃木大将が「164高地を高崎山」と命名し感謝して感状授与されたという話です。
 群馬の教育・軍事の責任者の大塚なる人物が「死傷者も多く、失明軍人もある故に、この失明軍人のために何かの方法を設けて職業を得させたいものだ」と、高崎山攻防の活躍に報いるために心痛していたといいます。大塚は、後輩の東京盲唖学校校長の小西信八に相談し、更に小西に瀬間が白羽の矢を立てられたといいます。日露戦争による群馬県内の失明軍人は11名でした。この数は多いのか、少ないのか。どう判断すればよいのでしょうか。
 旅順攻防戦の死者は日本側で6万人、ロシア側で1万5千人で、戦傷者数は数万人と言われています。乃木大将の二人の息子勝典・保典も戦死したそうです。次男保典は高崎15連隊に所属していたこともありました。乃木は、1906年(明治39年)1月、日露戦争の終戦により第3軍の廃止と同時に、軍事参議官となり、同年7月6日に第5・第6・第12師団管下の特命検閲使、8月25日に宮内省ご用掛、続いて1907年(明治40年)1月31日に学習院院長を兼ねることになりました。乃木の群馬の慰問はコレラの帰国後のことで、学習院院長就任前のことだったことが分かります。乃木も、兵士達の失明というハンディキャップは適当な仕事のないことを実感していたので、失明軍人の点字習得や按摩による社会復帰を念願していたといいます。多くの戦死者や傷病兵の方に改めて哀悼の意を捧げたい。そして、二度と戦争が起こらないことを祈念したい。
 本校の70周年記念誌では乃木の本校慰問の新聞記事や逸話も記載されています。失明軍人の職業教育のために、1905年(明治38年)9月18日、現在の群馬県立盲学校の基となる上毛教育会附属訓盲所が作られました(ただし、現住所とは違い県庁前)。瀬間は、小西の薦めによりこの訓盲所の教師になりました。本校の当初の目的が「お国のために失明した軍人の教育」でしたが、瀬間は一般の盲人達の救済も念頭にあったと考えられます。翌10月には一般の盲人も5名入学させました。創立の翌年1906年(明治39年)11月11日に乃木大将が高崎15連隊への感謝と失明者への慰問に訪れました。この時に、東京盲唖学校長・小西信八(1854〜1938年、84歳)、山岡熊治(1868年12月8日〜1921年。53歳)なども同道しています。山岡は、旅順攻防戦の第3軍参謀で、奉天会戦で両眼を失明し、帰国後中佐となり、のち盲人協会会長を務めた人物です。乃木の訓示と山岡も訓話があったようです。失明中佐の訓話に失明軍人は感動したとあります。
 乃木は、11月10日午後7時22分着で前橋まで単独で汽車で来て、徒歩で本町白井屋の山岡の所に行き、宿帳の記入と言われたのに「急ぎには及ばず」と言い名前も名乗らなかったようです。宿泊者の名前を警察に届けるのに再度宿帳にと迫られ、「軍人乃木希典」と署名し、やっと乃木大将であることが分かり、大騒ぎになったようです。翌11日に本校に行かれ、入られるとすぐさま、瀬間の手をとられ、「瀬間さん、御苦労様です。」と言われたので、瀬間先生は感激の余り、言葉も出ず、涙さえ浮べられたと書かれています。乃木の休息の間に吸っていた煙草は庶民的な「あさひ」で、訓辞を15分行い、庭に松の記念植樹をして、午後1時20分の汽車で帰郷したそうです。乃木の訓辞は本校の70周年記念誌に口絵写真とその逸話が掲載されていますが、見たことがありませんでした。現在は本校の教材教具室にありましたので、その後は校長室に保管してもらうことになりました。桐の箱に入った乃木希典の訓辞が掛け軸として表装され1本、ただ掛け軸になったものが1本、表装も何もしていないものが1枚。以上が所蔵されています。以下に文字化したものを紹介します。
 「乃木大将訓辞」(桐箱表書)
 「為群馬縣立盲唖學校 陸軍少将 桜井忠温書」(箱裏書き)
 (本文)
 「乃木希典訓辞。富國強兵といふ事に就いて、何が基であらうかと言へば、國家として遊民廃人の無いことが望である。然るに此れを望めば教育と云ふ事より大切な事は無い。教育に於て盲唖の人を教わる其の方法手段、今日の如きに及んだのは、眞に文明の賜である。然しながら之を學ぶ人は大いなる勇氣が必要であると考へる。普通健全な者ですら耐えざる事に耐えるのみならず、其の學びえた事を實行する上に就いては、其の勇氣と忍耐とによりて、健全にして遊情無能の人を戒め懲らすことに於て、即ち富國強兵の大なる力となる事を信じる。右は、明治三十九年十一月十一日、群馬縣前橋なる上野教育會が明治三十八年九月縣下失明軍人六名の為に訓盲所を設けしを見舞はれし際、訓辞されし言葉で、生徒が點字を以て筆記したものである。陸軍少将 桜井忠温書(□印)」
 本文の最期に乃木大将の訓辞を生徒が点字で書き留め、陸軍少将の桜井忠温(ただよし、)1879.6.11〜1965.9.17)が書き写したとあります。桜井はウィキペディアによれば、愛媛県松山出身で、松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征し、乃木将軍配下で、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負ったようです。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという逸話も残されています。帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行し、戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介されました。陸軍省新聞班長を勤めたり、他に著書も幾つかある執筆家でもあるようです。桐の箱の訓辞は、桜井氏からの寄贈と思われます。ただ掛け軸になっている物がありますが、裏には、創立60年の折に、中村武雄氏が寄贈したものと書かれています。本校の同窓会は明治38年に発足しています。その中には中村氏の名前はありませんでした。
 3つの訓辞は同じ書体と思われますので、桜井が失明軍人の6名に書いて与えた者が所蔵されて来たのかとも考えました。一般的に乃木希典を知っていましたが、この訓辞を読むと乃木大将の思いやりや、失明した軍人への叱咤激励を感じます。盲学校の西側の寄宿舎には乃木大将お手植えの松といわれている松があります。『群馬県盲教育史』の中から、乃木希典の本稿来校の逸話を紹介してみます。
 乃木は、突然に失明軍人の慰問を思い立ち、一人汽車に乗り前橋に赴いたようです。供も連れず、威張ることもなく、ぶらりと宿泊しました。それを宿から聞いた群馬県の警察や教育界は慌てふためいたと言います。本校に赴いたときにも、瀬間に自ら歩み寄り握手をし、慰労の言葉をかけたといいます。乃木は庶民的な煙草を吸っていたという逸話も残っています(両毛線は、1884年8月8日にに高崎〜前橋が開通)。
 しかし、訓盲所も明治40年7月21日に失明軍人3人の卒業式をもって、一応その初期の目的を達成したというので、閉鎖となりました。その時の一般の生徒は20名程入所していました。明治41年4月に上野教育界師範学校附属小学校訓盲所が開校。さらに、前橋市立訓盲所(桃井小学校)→ 私立盲唖学校等と名前や所属が代わりながら、私立高崎盲学校・私立桐生盲学校を統廃合し、現在の群馬県立盲学校へと発展していきました、
 瀬間は、前橋キリスト教会に所属し、その関係から奥さんとなった西山千代子とも出会いました。キリスト教徒のの医師が後援者になってくれたり、授業をボランティアでもってくれたりして支援してくれたようです。瀬間は鍼按科の1年から3年まで全学年を担当し、解剖・生理・病理・按摩・鍼灸を教え、午後は治療院で生計を立てていました。当時は教科書もなく、瀬間も自ら専門書を点字に書き写したり、生徒は瀬間が読み上げる教科書を書き写すのが授業でした。模型などの教材もほとんどない中での解剖の授業だったそうです。普通科の先生方も無給で教え、年齢差や学習の経験のない者が混在する中での学校風景でした。
 昭和になっても盲学校の環境はあまり向上せず、多少の教員の補充や給料の昇給もありましたが、多くの教員が自らの治療院で生計を立てていたのは代わりません。当時の時間割は月曜日から土曜日まで、40分・5時限(9時から始まり、1時40分に放課)でした。持ち時間は23時間程度で、ほとんど休みがない状態で教えていたようです。ボランティアの医師・鈴木はウサギを解剖してまだ動いている心臓などを触れさせるなど、先端の授業も行われていました。盲学校では日本最初といえるようです。普通科の教員が少ないために鍼按科の教員が普通科の国語や算術、綴り方・歴史なども教えていたようです。
 1927年(昭和2年)に群馬県立盲唖学校が発足しましたが、予算が少なく瀬間はこの学校には採用されませんでした。時に50歳という若さで、その後は治療院を開業して終わりました。創立当初の恩人は報われたのでしょうか。何といたわしい状況だったのか。調べていて涙が出る思いです。しかし、更に調べていくとその貢献は忘れられずに色同 な表彰を受けたというので、胸をなで下ろしました。
 ※参考文献:柳本雄次『群馬の障害教育を創めた人同』(あずさ書店、9〜34ページ、1990年)
(2)日本最初の盲人マッサージ師・富岡兵吉
 群馬盲と直接関係があるかというと、そうではありません。群馬県出身で、群馬盲には勤めていません。しかし、群馬県の教員が多大の影響や恩顧をこうむった先生です。平成24年度の当初に桜雲会から、群馬県出身の富岡兵吉(とみおか へいきち)の墓地について問い合わせがあった。さらに、同年5月21日に群馬の地方紙・上毛新聞社の記者の方から「富岡兵吉の偉人伝について記事を書きたいのだが、詳細が分かるか」との問い合わせがあった。
 兵吉については、十数年前に恩師・故・長尾栄一先生から「私が医学史の教科書に最初に紹介したんだよ」と言われ、本県出身の視覚障害者の偉人伝であることを知っていた。医学史の教科書では群馬県出身、盲人の日本で初めての病院マッサージ師との記載だけで、他のことを知ることはなかった。近年、栗原光沢吉『富岡兵吉先生の思い出』(桜雲会、点字出版)が地方の点字図書館に所蔵されていることを知り、借用して調べようかと思っていた。ところが桜雲会編「マッサージ医療の開拓者 富岡兵吉先生の思い出と日本按摩術」(桜雲會、2008年)が出版されて、やっと安易に入手できた。初めは「富岡」という姓なので、県内の富岡出身の方かと思っていた。問い合わせが続いたので急ぎ用意してあった資料を見返したり、インターネットで調べてみた。その結果を上毛新聞社に送り、何回か電話で問い合わせを受け、同紙・平成24年6月14日(木)の記事となった。
 まずは、前掲書などで兵吉の心情をピックアップしてみます。
 ○いつもポケットにヤスリを入れて爪の手入れをしていた。
 ○関東大震災では、同窓生の安否や支援に回った。
 ○群馬県人の世話をよく見ていた。
 ○略歴
 明治2年(1869年)3月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)で生まれる。3〜4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。
 1880年3月に園原小学校下等科を卒業。翌1881年に沼田市馬喰町(元の川田村)の深代某氏に入門し、按摩・鍼を習う。按摩をした旅人から東京盲唖学校のことを聞き、そこでの就学を決意する。
 1888年(明治21年)10月。東京の築地にある東京盲唖学校に入学したが、このころまでには完全失明していた。東京盲唖学校教師の奥村三策宅に下宿する。
 1889年(明治22年)3月に東京盲唖学校按摩科を卒業し、さらに鍼治科に学ぶ。
 1890年(明治23年)11月。東京盲唖学校が小石川の雑司ヶ谷町に移転。
 1891年(明治24年)3月に東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で初めてのマッサージ師として勤務する。
 1895年(明治28年)3月に西山なおと結婚して、その後2男2女を得た。
 1898年(明治31年)、勤務先を築地の山田病院に替える。
 1912年(大正1年)に東京盲学校(東京盲唖学校を盲部門と聾唖部門に分離した盲教育部門。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の嘱託になり、警視庁鍼灸按摩試験委員、文部省盲教育講習会の講師を務める。
 1913年(大正2年)に東京盲学校訓導になり、文部省経穴調査委員になる。
 1916年(大正5年)に東京盲学校教諭になる。
 1917年(大正6年)に著書『日本按摩術』を刊行する。
 1920年(大正9年)、東京盲学校の同窓会理事長になる。
 1921年(大正10年)に点字著書『点字存稿集』を出版する。
 1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が全焼したが、同窓会会員の罹災救護に励む。
 1926年(昭和1年)2月18日に肋膜炎のために逝去した。享年57歳。
 1938年(昭和13年)2月13日には、東京盲学校講堂で、奥村三策先生二十七回忌、富岡兵吉先生三回忌の追悼式が行われ、かつて教師として教え子に影響を与えた2人の事跡が偲ばれた。
 また、群馬の地方新聞・上毛新聞平成24年6月14日(木)に兵吉の記事が掲載されましたので紹介します。
 「日本初の病院マッサージ師 視覚障害者 就労に道 富岡兵吉(写真略)」
 130年を超える歴史を持つ筑波大学附属視覚特別支援学校(東京都文京区、旧東京盲学校)。これまでに数多くのマッサージ師や鍼灸師を輩出してきた同校の授業で、現在も取り上げられる盲目のマッサージ師がいる。日本初の病院マッサージ師として知られる、旧利根村(現沼田市)出身の富岡兵吉だ。死後90年近くを経過してもなお、手に職を持つ視覚障害者の先駆けとなった偉業は色あせていない。
 同校の卒業生を調査した星山洋子教諭(54)は富岡について「視覚障害者が勉強することも難しい時代に、努力を重ねて活躍したすばらしい人」と評価する。当時の文献には富岡の人柄や品格をたたえる記述も残ると紹介。星山教諭は「まだ認知度は低いので、紹介する機会を増やしたい」と話す。
 富岡は1869年、4人兄弟の末っ子として生まれた。幼少時から視力が低下し、園原小学校卒業の際にはマッサージやはりを学ぶことを決意したという。沼田で修行を始めた後、さらなる技術を求めて、88年に東京盲学校に入学。卒業後は病院に勤務する日本初のマッサージ師として、東京帝国大附属病院(現東大附属病院)に勤務した。病院では、多くの患者に慕われたと伝えられている。
 その後、母校である東京盲学校に戻り、教員としての活動をスタート。後進の指導にあたったほか、日本に伝えられたマッサージ技術をまとめた著書「日本按摩術」を完成させた。同書は現在も貴重な専門書として活用されている。
 盲人史を研究する県立盲学校(前橋市南町)の香取俊光教諭(54)は富岡について「時代を切り開く力を持った人物」と分析。当時、障害のある人は働く機会を得ることが難しい環境だった上、教育や交通機関も未発達だったと指摘する。そうした中で頭角を現した富岡について「職業人としての自覚、マッサージ師としての高い技術など現在も学べるところは多い」とたたえている。
 ※メモ
 1869年生まれ。88年、東京盲学校(現筑波大附属視覚特別支援学校)に入学。卒業後は東京帝国大附属病院(現東大附属病院)などに勤務し、その後、東京盲学校教諭として活動。1926年死去。
 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに1917年(大正7年)「経穴調査委員報告書」があり、学兄の小林健二氏から資料を提供していただいた。資料の中に兵吉は、当時の壮そうたる人物と共に経穴の調査報告に当たっている。
 「大正七年十二月 經穴調査委員報告書 文部省」
 下名等ハ大正二年十一月中經穴調査委員囑託ノ命ヲ受ケ候ニ付爾來愼重調査中ニ有之候處今般調査結了致候ニ付別冊ノ通報告候也
 【下名等ハ大正二年十一月中に經穴調査委員囑託ノ命令ヲ受ケそうろうニつき、じらい愼重調査中ニこれ有りそうろうところ、今般調査結了致しそうろうニつき別冊ノ通り報告そうろうなり】 大正七年四月
 吉田 弘道、富岡 兵吉
 医学博士 文学博士 富士川 游、町田 則文
 医学博士 理学博士 大澤岳太郎、三宅 秀
 文部大臣 岡田 良平殿
 「報告書」(中略)
 三 上記六百六十穴ノ中、コレヲ身體局部ノ關係ニ見テ、重要ナラスト認メラルルトコロノ孔穴ヲ省キ、本篇ニハ左ノ孔穴ヲ擧ケタリ
  頭部正中線  六穴
  頭部第一側線 四穴
  頭部第二側線 五穴
  額部     二穴
  顳?部    三穴
  顱頂部    二穴
  耳前部    二穴
  耳下部    一穴
  顔面部    九穴
  頸部     二穴
  胸部    十二穴
  腹部正中線  七穴
  腹部第一側線 八穴
  腹部第二側線 八穴
  側腹部    六穴
  背部正中線  四穴
  背部側線  十三穴
  肩胛部    二穴
  上肢    十三穴
  下肢    十一穴
  総計   百二十穴
 右諸穴ノ中、頭部正中線、腹部正中線及ヒ背部正中線ヲ除クノ外ハ、各孔穴ハ左右ニ存在スルカ故ニ、コレヲ合算スレハ、孔穴ノ數ハ二百二十三個トナル、コレヲ從來ノ孔穴ノ數ニ比スレハ殆(=ほとん)トソノ三分一ナリ
 四 從來、孔穴ヲ取ルニハ折量分寸ノ法アリト雖モ、ソノ説劃一ナラス、故ニ、ココニハ解剖學上ノ位置ヲ示シ、略(=ほ)ホ孔穴ノ部位ヲ知ルノ便ニ供セリ(後略)
 更に、兵吉の事跡をまとめてみます。
 ○業績
 日本で最初の視覚障害者の病院マッサージ師、盲目の盲学校教師。マッサージの実 技書を残した。
 ○生没
 1869年(明治2年)3月3日〜1926年(大正15年)2月18日、午後3時40分、数え58才。
 ○出身
 群馬県沼田市利根町薗原(そのはら)
 ○葬地
 浅草今戸(いまど)広楽寺
 〒111-0024 台東区今戸2-4-2
 電話03-3873-5707
 墓地は、第二次世界大戦の戦火で一時所在不明ということであったが、平成24年  10月4日に広楽寺様に問い合わせしたところ現存しているとのこと。機会を得て、お参りしたいと考えている。最寄り駅は現在話題となっているスカイツリーが近い東武伊勢崎線の曳舟【ひきふね】駅である。
 ○著書
 『日本按摩術』(前掲桜雲会にて再出版)
 『点字存稿集』点字出版
 ※兵吉の恩賜・奥村三策については、奥村の出身地金沢の松井 繁『奥村三策の生涯 近代鍼灸教育の父』(森ノ宮医療学園出版部、2004年」や奥村の著書『改訂按摩鍼灸学』(文光堂、1925年)もある。
(3)点字の語り部・栗原光沢吉(つやきち)
 視覚障害者や教育のことを知ろうとすると栗原光沢吉(くりはら つやきち)の著書をよく見かけます。光沢吉については柳本雄次『群馬の障害教育を創めた人同』(あずさ書店、9〜34ページ、1990年)に詳しく、群馬県内の視覚障害教育創立の苦難も描かれています。本稿はこれを参考にしました。
 光沢吉は、勤務先の大先輩である群馬県立盲学校の盲目の教諭です。最期は教頭で定年となったそうです。恩師に「何でも点字で打っておけ」との教えを守り大正2年から点字の日記を書き続け、多くの記録を残しました。著書となり、明治・大正の群馬県の盲教育の創世記の苦難やその教育の実態などを伝えています。100年を超える盲教育の草創期の苦闘を伝える記録が盲人達の苦難を伝えてくれています。どうしても視覚障害者は記憶に頼り、それが伝承者の歴史的位置づけを持っていた。それに反して、光沢吉は点字という一つ一つの点に込めて忍耐強く記し続けた。近代になるまで、記憶を旨としていた盲人の辛苦と、その知識が失われていく現実もある。光沢吉のお陰で草創期の群馬の盲学校では、今日では考えられない教育事情の中で先輩達が学習していた。教師達は無給であったり、それを補うために治療院も併せて生活したり、生徒は教科書もなく、教師の読み上げた文章を書き写すのが授業であった。今の視覚障害者の教育が危機的な状況にあるとは言え、当時と比べると環境の良い中で学習していることが分かった。また、国内盲学校で最初に点字を読むために本県にスチームが設置されたことも知れる。先輩の教師達の誓願のたまものであった。光沢吉は点字習得器を自作したり、当時盲唖学校であったので、聾唖の生徒の指導もおこなった。重複教育の先駆者でもあった。
 栗原先生は大先輩なので、私は直接接触がありませんでしたが、退職された先輩の先生から逸話を聞いたことがありました。墓地について、調べても不明でしたがご遺族の方に問い合わせて、快くご教示いただきました。ここに記して感謝申し上げます。群馬県立盲学校のことについては群馬県盲教育史編集委員会『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校)、群馬県教育委員会編『特殊教育義務制施行記念誌 ― 盲・聾学校40周年、養護学校10周年 ― 』(群馬県教育委員会)がある。
 ○業績
 盲目の盲学校教師。多くの視覚障害教育に関する著書を残した。多くの著書により、群馬の盲学校創立の苦難や実像を知ることが出来る。
 ○生没
 1897年(明治30年)2月28日〜1996年(平成6年)3月、数え100歳。
 ○葬地
 前橋市富士見町米野 → 東京都多磨霊園
 ○略歴
 1897年(明治30年)2月28日、群馬県前橋市(旧南橘村)に生まれる。
 1900年(明治33年)、群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる。
 1911年(明治44年)、桃川高等小学校を卒業する。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには弱視がしだいに進む。そのため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできなかった。
 1913年(大正2年)4月、前橋市の訓盲所に通い、普通科目・鍼按科を学習する。
 1914年(大正3年)4月、東京盲学校普通科4年(5年制)、技芸科(鍼按科)2年(4年制)に編入学する。
 1916年(大正5年)3月、東京盲学校普通科を卒業し、専攻科・鍼按科4年生になる。
 1916年(大正5年)4月、東京盲学校師範科に入学する。
 1919年(大正8年)3月、東京盲学校師範科を卒業する。同年4月、私立前橋盲学校の教師になる。ただし俸給は少なく、どの教師も、午前は授業、午後は鍼・按摩・マッサージの治療を行う状態だった。
 1924年、黒沢てつと結婚。
 1957年(昭和32年)3月、群馬県立盲学校(教頭)を退職し、住居を東京都杉並区上高井戸3丁目に移す。退職後は、日本点字図書館の本の校正をボランティアでしたり、盲教育中心に歴史を証言する文章を書いた。著書は後に詳述した。
 1996年(平成6年)3月、逝去、享年99歳。前橋市富士見町米野に墓があったが、子供たちが東京に全員出てしまったので、東京都多磨霊園に夫婦共改葬とのこと。
 ○著書
 『富岡兵吉先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
 『瀬間福一郎先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
 『富岡兵吉先生の思い出』(1971年、ガリ版印刷)
 『大正の東京盲学校』(あずさ書店、1986年1月、223ページ) 
 ※サピエにデイジーデータあり。
 『点字器とのあゆみ』(あずさ書店、1988年8月、B6判157ページ)
 ※サピエに点字データあり。
 『群馬の盲教育をかえりみて』(あずさ書店、1989年8月、A5判606ページ)
 『点字の輝きに生きる』(あずさ書店、1990年7月、B6判197ページ)
 『光うすれいく時 ― 明治の盲少年が教師になるまで ー 』(あずさ書店、1993年5月、B6判136ページ)
 ※サピエに点字データあり。
 『むつぼしの歌 ― 栗原光沢吉短歌集 ― 』(あずさ書店、1994年8月、B6判、198ページ)
 ※サピエに点字データあり。
 『点字随筆・老いのつぶやき』(あずさ書店、1995年4月、B6判、107ページ)
 ※サピエに点字データあり。
 『点字器とのあゆみ』『光うすれいく時 ― 明治の盲少年が教師になるまで ― 』(大空社、1998年、「盲人たちの自叙伝 51」第3期20冊の1冊として上掲2冊を合本復刻)
 『光うすれいく時 ― 明治の盲少年が教師になるまで ― 』(文芸社、2007年(上掲のものを再録)
 桜雲会編「マッサージ医療の開拓者 ― 富岡兵吉先生の思い出と日本按摩術」(桜雲会、2008年)
 以上の紹介した文献以外に下田知江『盲界事始め』(あずさ書店、1991年)があったり、石川県立石川盲学校の松井繁『奥村三策の生涯 近代鍼灸教育の父』(森ノ宮医療学園出版部、2004年)が出版された。また、国立国会図書館で明治・大正・昭和の貴重な文献がインターネットからダウンロードできるようになった。近代デジタルライブラリーと呼ばれるもので、画像データではあるが今後の活用が期待される。



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