6 栃木県足利盲学校と私の父親




 最後に足利盲学校について紹介してみます。足利は栃木県であるが、東武伊勢崎線が大きく北に迂回していて群馬の太田。邑楽、館林に住む人間にとってはとても親密な土地です。私も太田市で幼少期を過ごし、ちょっと自転車で走っていくと足利市で、更に走っていくと群馬県邑楽郡といった感じです。高校は、足利市を通過して舘林高校に通ったので、渡良瀬川の南に至ってまた、群馬県に戻るという生活でした。私の最初の歴史の研究課題は新田氏でしたので、足利氏は新田氏研究には通過しなくてはならない課題でもありました。新田氏の始祖義重の弟は足利義兼でしたので、足利の土地も何回も訪れました。
 さて、足利盲は土地柄も近いばかりではなく、父親の母校でもあり、今回取り上げたいと思ったわけでした。足利盲は、1916年(大正5年)11月13日、足利鍼灸按講習所創立(足利市本城3丁目の沢田正好自宅)から出発し、1949年(昭和24年)、栃木県立盲学校、足利市相生町から河内郡横川村江曽島670(現・宇都宮市)に移転まで、33年間足利にあった盲学校で、その最後の跡地は今でも視覚障害者の支援施設となっています。
 沢田正好先生(弱視)の鍼灸治療院から始まり、県立栃木盲学校まで発展した盲学校です。父親は、沢田先生のお宅は織姫神社近くにあったといっています。織姫神社は西宮町にありますし、設立の住所が本城3丁目と符合しないので、現在の区画とは違うのか判明しませんでした。
 足利盲については、市田敬一先生から『栃木県立盲学校創立百周年記念誌 星霜 栃盲百年の歩み』(栃木県立盲学校、2009年)を頂き、群馬県・栃木県の盲学校の動きを年表にしてみました。『足利市史 下巻の2』(足利市、687頁、1928年)にも記載があり、足利市本城3丁目に設立し、13名の生徒から出発したとあります。1926年(大正15年)6月9日、私立足利盲学校、栃木県知事より按摩術営業取締規則および鍼術・灸術営業取締規則第1条の学校に指定された。当時について記載がある。
 校長沢田正好、職員5名。生徒数は、初等部男12名・女8名、計20名。中等部男6名・女8名、計14名、男女合計34名とあります。記念誌には、その創立の経緯や校庭が広くスポーツが盛んで、サウンドテーブルテニス(stt、盲人用ピンポン)の創始が沢田先生とあります。
 『点字毎日 激動の80年 ー 視覚障害者の歩んだ道のり ー 』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)の中から足利盲について拾ってみます(文字化は筆者)。
 1929年(昭和4年)5月、関東北部盲学制陸上競技大会、東京5盲学校主催の第1回関東北部盲学制陸上競技大会は、19日学習院競技場で開催。東盲・築地・同愛・仏眼・杉山・中郡・横浜訓盲・横浜盲人・新潟・石川・岩手・磐城・庄内・茨城・宇都宮・足利・埼玉の17校が参加。群馬の盲学校が出場していません。また、この中にある盲学校の幾つかは戦争で消失してしまったものもあります。東盲は筑波大学付属視覚特別支援学校、築地は都立文教盲学校、同愛はヘレンケラー学院、仏眼は消失・廃校(浅草に存在)、杉山は消失・廃校(豊島区大塚駅前に存在)。仏眼協会盲学校や杉山鍼按学校については、別の場所で詳述したいと思っています。
 1933年(昭和8年)8月、沢田氏盲人用ピンポン考案。足利盲の沢田正好校長は、盲人用ピンポンを考案。先頃、点盲臨時総会で試験したところ、なかなかの好評。ピンポンというよりも玉ころがしといった感じで、盲人室内競技にはうってつけ。この昭和8年頃に盲人用ピンポン(サウンドテーブルテニス・stt)が創始されたことが分かるのではないでしょうか。女子のスポーツ競技として考案され、次第に全国に広まったことが分かります。
 点毎『激動の80年』昭和18年(1943年)12月、海軍、技療手養成。東京都鍼按師会は、昨年の夏以来、海鷲の疲労回復にと、海軍の養成に努めていたが、ようやく海軍当局の認めるところとなり、都内神田の訓練所を海軍省直轄の海軍技療手訓練所に移管。所長に東京都師会長橋本たろういえとし氏を任命し、山形・福島・栃木・茨城の諸県から選ばれた人を技療手として訓練。
 昭和19年(1945年)1月、足盲、技療手志願者の繰り上げ。栃木県足利盲は、航空決戦苛烈の織柄、技療手の任務の重きを痛感。今春卒業の鍼按科生のうち、技療手志願者には繰り上げ卒業をさせ、前線に送ることを決定。
 昭和19年(1944年)3月、茶木よしお氏、名誉の戦死。
 このように従軍した視覚障害者が戦死した記事もあります。他に視覚障害者がどのくらい戦地に赴いたのかは分かりませんが、戦時下で視覚障害者も巻き込まれていったことが分かります。父親に学校は緊迫したこのような雰囲気はあったかと聞きましたが知らないようです。
 父親は、校舎は2階建て、1階の真ん中に玄関で左手が職員室で、東側には寄宿舎(北)・講堂(南)であったと言っています。33人。盲聾跡地はどうなったか調べてみました。足利市視覚障害者福祉ホームが住所などから跡地ではないかと思いました。足利市視覚障害者福祉ホームが足利盲の跡地か、平成26年4月に電話で問い合わせてみました。ホームページもあります。現在は、校舎部分が払い下げとなり「相生幼稚園」→ 廃止・私有地。寄宿舎・講堂部分が盲人ホーム → 平成19年4月1日より「足利市視覚障害者福祉ホーム」として、現在も視覚障害者のために利用されています。同ホームの目的は、視覚障害者の福祉向上のため、生活相談や技術指導等による自立支援や点字・音訳による情報の提供、利用者相互の交流や社会参加の支援などと共に、中途失明者のための生活訓練事業を行っています。 現在足利市相生町385 。電話番号 0284 ? 41 ? 2200。FAX 0284 ? 41 ? 2200。開館時間は午前9時00分〜午後5時00分。休館日 土・日曜日、国民の祝日、年末年始(12/29?1/3)。
 私の父親は、群馬県太田市から汽車に乗り足利盲学校鍼按科に、昭和19年〜23年3月まで就学しました。父親の思い出は沢田先生(弱視)と小川亀太郎先生(全盲)といっていました。特に小川先生は、山形県東根市の出身で、奥様をウメさんといい、私の母親の親戚(祖母の姉妹)です。そんなことから、当時山形から小川先生のところに針子として出てきた母親と父親を結びつけて仲人をしました。父母とも今でも小川先生を敬愛しています。私も生前の小川先生とは、父親のお供で年始の挨拶にでかけ、何となく覚えています。父親は義理堅く年始・墓参りをかかさずにいました。父親にとって小川先生は按摩や鍼の師匠でもあり、仲人ということで心底より感謝しているのですね。学生当時も、盲学校より西方にあった小川先生のお宅を訪れたりして、周囲の生徒にやっかみを言われていたようです。授業中は柔道着の上から按摩をさせたり、鍼が下手な親が刺せるまで練習台になったという。
 沢田先生のお宅は盲学校の門前(西側の正門の道を隔てたやや北側)で、よくおじゃましたといいます。また、沢田正好先生の逸話をもう一つ足します。『激動の80年』昭和21年(1946年)6月の全国盲聾唖教育大会、大日本教育会主催、全国盲聾唖教育大会は、20日から3日間、奈良市東大寺かいだん院家華厳寮で開催。食料を詰め込んだリュックサックを背負っての南雲總次郎・旭川盲校長。神奈川県二宮駅付近の事故で死傷者を出した列車に乗り合わせて、コブ二つで厄を逃れて来たという沢田正好・栃木盲校長。数日来の降雨で明石・神戸間の土砂崩れで、徒歩覚悟を決めてきたという瀬能岡山盲、やひろ広島盲両校長ら62人が出席(以下略)。
 当時の父親は弱視で渡良瀬川の南の東武線の足利市駅より橋を渡り通学し、全盲の生徒を誘導したり、運動の思い出を語っていました。野球は、掌にボールを置いて打つものやその後にバットで打つもの、フットベースボールなど盛んにやっていたといいます。父親がバットで打ったボールが職員室のガラスをよく割ったと自慢していました。通学の途中で空襲に当たった思い出もあるようです。太田市・前橋市には、隼・夜間戦闘機月光九五式艦上戦闘機などの飛行機を制作していた中島飛行機工場があり、空襲がありました。
 また、卒業の昭和23年4月から「あはき法」が改正となり、父親もこの直前の改正前後の過渡期に当たりました。父親は22年12月に法律改正前の試験を実施したことが印象に残っているようです。同じ卒業生と不安になりながら試験に臨んだということで、今も昔も受験はいやなものです。
 更に、群馬盲の先輩・田島始先生は、父親の足利盲の恩師。田島先生が群馬盲に転任して妹の恩師となっています。私が拙宅を求めましたら、偶然にも田島先生のお宅の道を隔てた北側となりました。何という縁の深い先生でしょうか。
 昭和28年(1953年)1月、栃木県の盲聾児調査。栃木県教委調査統計室は、この程、盲聾児の就学調査を実施。盲62人、聾246人に対し、就学している者は、盲33人、聾129人。
 昭和29年(1954年)8月、栃木盲教諭・鈴木彪平氏留学。栃木盲教諭鈴木彪平氏は、アメリカのニーヨーク盲とハンター大で盲学校における職業教育と宗教的情操教育の実情調査、ならびに盲学生のスポーツについて研究するために、27日出発。
 昭和31年(1936年)7月。鈴木彪平?帰朝。アメリカニューヨークのハンターカレッジなどに2年間留学していた栃木盲教諭・鈴木彪平氏は、マスターズ・オブ・アーツの学位を得て、21日帰朝。鈴木彪平先生については、「栃木盲学校同窓会ホームページ」に詳細な紹介があります。興味のある方はご確認下さい。偉大な先生がどこの学校にもいらっしゃいます。



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